[社説]返還された「御後絵」 実物は「情報」の宝庫だ

 「御後絵」と書いて「おごえ」と読む。うちなーぐちでは「うぐい」。琉球国王の肖像画のことである。

 沖縄戦の際、国外に持ち出され、行方が分からなかった御後絵が、79年の時を経て、沖縄に帰ってきた。

 実物は県内に1点も残っていなかっただけに、文化史的な意義は極めて大きい。

 県は、御後絵や金工品、磁器、陶器など流出文化財22点が米国で見つかり、県に返還されたと発表した。

 返還された御後絵6点のうち2点は、戦前に撮影された写真と照合した結果、第二尚氏の第13代尚敬王と第18代尚育王の肖像画と確認された。

 御後絵は、中央に中国風の衣装を身に着け正面を向いた国王が大きく描かれ、左右に家臣・従者が小さく描かれているのが特徴だ。

 国王が亡くなった時に専門の絵師によって描かれ、首里城北側にあった歴代国王の菩提(ぼだい)寺である円覚寺に納められた。

 御後絵を巡る歴史は、実に変転極まりない。

 琉球王国の崩壊後、御後絵は円覚寺から龍潭の前にあった中城御殿(国王の跡継ぎの屋敷)に移された。

 沖縄戦の際、米軍の砲撃によって首里城も中城御殿も円覚寺もすべて焼失した。

 金庫に納め中城御殿の防空壕に避難させてあった貴重な文化財は、戦後調べたところ全て空っぽだった。

 沖縄の国宝級の文化遺産は、琉球王国の崩壊と沖縄戦という沖縄を襲った二重の悲劇によって失われ、散逸してしまったのである。

■    ■

 流出文化財のうち聞得大君(きこえおおきみ)のかんざしや「おもろさうし」などは、ペリー提督来琉100周年にあたる1953年、沖縄に返還された。

 沖縄と米国の双方で流出文化財返還の機運が高まったのは、沖縄サミットが開かれた2000年前後である。

 在沖米総領事館が国務省に働きかけ、県は担当者を米国に送り、返還プロジェクトが具体化する。

 中城御殿から持ち出された王冠、皮弁服(儀式用の礼服)、肖像画などを米連邦捜査局(FBI)の盗難美術品ファイルに登録する、というものだ。

 FBIによると、返還された御後絵などの文化財は、退役軍人だった父親の遺品を整理中に、家族が屋根裏部屋に隠されていたのを見つけた。

 FBIは、沖縄戦で略奪された可能性のある美術品だと判断し、捜査を進めていたという。

■    ■

 御後絵を巡る受難の歴史で忘れてならないのは、染織家で沖縄文化研究者でもあった鎌倉芳太郎の存在である。

 鎌倉は戦前、荒廃し崩壊寸前にあった首里城の再建に力を尽くし、中城御殿では御後絵をモノクロで写真撮影した。これらの写真資料や証言、文献などを基に御後絵の複製が制作されたのである。

 王冠や国王の皮弁服などはまだ見つかっていない。文化財という名のモノにはさまざまな「情報」が詰まっている。

 散逸した文化財を取り戻すことは自分たちの手に歴史を取り戻すことでもある。

© 株式会社沖縄タイムス社