浮かんでは消えた「キツネ目の男」 「倉庫に社長監禁」12万5千人が捜査対象に グリコ・森永事件18日で40年

グリコ・森永事件を報じる新聞記事のスクラップを手に当時を振り返る元捜査員=兵庫県内

 夕闇を待つ河川敷に、ひっそりと立つプレハブ小屋の周囲には、人家はおろか、人影一つなかった。ぐるりと見渡せば、広大な貨物ターミナルや下水処理場といった無機質な施設ばかり。小屋の扉を開ける。コンクリートの床に、つたがはっていた。しんと冷えた空気が出動服に容赦なく入り込み、体の芯まで染みてくる。「こんなとこに、ほんまに社長がおったんかいな」。捜査員は、戸惑いながら白手袋をはめた。

 40年前の1984年3月21日夕、大阪府茨木市。淀川水系の安威川左岸にあった水防倉庫で、兵庫県警の現場検証が始まった。日本を代表する菓子メーカー「江崎グリコ」の江崎勝久社長(82)が監禁されていた場所だ。

 捜査員が携わった検証は1週間ほど続いた。はしごが掛かった屋根裏のような2階の奥、大量の叺(かます)(わらむしろの袋)が積み上がった辺りに、閉じ込められていたことが確認された。

■10億円と金100キロ

 発端はその3日前、3月18日の夜だった。兵庫県西宮市の江崎社長宅に3人組が押し入り、連れ去られた。

 犯人は、脅迫状で「現金10億円 と 金100kg を よおい しろ」と要求。江崎社長は3月21日、監禁先の水防倉庫から自力で抜け出したが、これは終幕ではなく、一連の事件の始まりに過ぎなかった。

 世に言う「グリコ・森永事件」。またの名を「警察庁広域重要指定事件114号」。犯人グループは「かい人21面相」を名乗り、企業や警察、マスコミに次々と脅迫・挑戦状を送りつけた。

 標的は、森永製菓やハウス食品など計6社に拡大。その年の10月7日には、西宮市内のコンビニなどに青酸混入菓子がばらまかれ、小売店がこぞって店頭から商品を撤去する事態に発展する。

 市民や報道機関を巻き込んだ最初の「劇場型犯罪」は、高度成長期が終わり、安定成長期に入っていた日本を震撼(しんかん)させた。

■キツネ目、ビデオ…

 「入浴のタイミングまで把握しており、無駄がなく極めて緻密に計画された犯行」。兵庫県警、大阪府警などの合同捜査本部に加わった捜査員は、とば口となった江崎社長の誘拐事件をそう振り返る。

 犯人グループはまず、ガラス窓をバーナーなどで熱する「焼き切り」の手口で母屋に侵入。そして中にいた家族から合鍵を奪い、社長がいた邸宅に堂々と入ることで、警備システムをかいくぐっていた。

 内部犯行説、総会屋や外国人、暴力団の関与説、株価操作で利益を得ようとした仕手筋犯行説-。捜査線上にはさまざまな犯人像が浮かび、その全てが決め手を欠いた。

 現金の受け渡しは、大阪や滋賀で繰り返し設定されたが、犯人グループは姿を現さなかった。捜査本部は、丸大食品とハウス食品の二つの脅迫事件に現れた「キツネ目の男」の似顔絵を公開。青酸入りドロップが置かれた西宮市内のコンビニで不審な動きをする「ビデオの男」の防犯カメラ映像を公開して情報を募った。

 捜査本部には、不審車両や遺留物など、幾つかの「物証」に特化した捜査班が編成された。その一つが、脅迫状だった。

■タイプライター

 日本タイプライター社製の「パンライター」-。

 捜査本部は、犯人グループが送りつけてきた脅迫状を分析。文字盤と組み合わせて印字するタイプライターが使われており、メーカーと製品も特定された。

 日本タイプライターから提出を受けた納品リストによれば、その数は数千台。警察庁と連携し、各都道府県警の捜査員が1台ずつ販路を確認する地道な作業が続いた。

 兵庫県警西宮署の捜査拠点には、その報告が全国から集まってきたという。タイプライターの写真と、文字を打ち出した紙、所有者の聞き取り内容…。最終的に、捜査本部は7割以上の所有者を特定したとされるが、犯人グループにはたどり着かなかった。

 ただ、その後の捜査につながる重要な成果もあったとされる。

 集約したタイプライターの報告は、兵庫県警の情報管理部門と共有し、コンピューターでリスト化した。犯人グループに直結する物証だっただけに、ささいなヒントでも漏らさず関連を検索できるようにするためのアイデアだったという。

 ある捜査幹部が、強調する。

 「それまでの事件の捜査では、人の記憶と書類の手繰りでしか情報を突き合わせられなかった。グリコ・森永事件のタイプライターの追跡は、現在のIT化にまでつながる大きな転換になった」

■終結宣言

 「くいもんの 会社 いびるの もお やめや」

 かい人21面相を名乗る犯人グループは、翌85年8月12日に突如として終結宣言を出した。

 乗客、乗員合わせて520人が亡くなった日航機墜落事故が発生した日のことだ。宣言文にも、やはりタイプライターが使われていた。

 犯人グループの動きはぴたりとやみ、捜査は停滞する。人々の関心も、バブル期の狂乱とともに薄れていき、2000年2月13日、一連の事件の時効が全て成立した。捜査対象に浮かんだのは、現職の警察官や著名な作家らも含め、約12万5千人に上ったとされる。

 「浮かんでは消え、消えては浮かぶ。かい人21面相の追跡は、この繰り返しだった」。西宮署の捜査拠点に詰めた捜査1課のベテラン刑事がこの年、神戸新聞の取材にそう答えた記録が残る。

 江崎社長の誘拐事件から18日で丸40年。鑑識課や捜査1課で事件に携わった捜査員は節目を前に、悔恨の言葉を口にした。

 「取れる証拠は収集し、精いっぱいの捜査をしたと思っている。技術が進歩してより科学的なアプローチができていれば、結果は違っていたかもしれない」

 1964年に運用が始まった「警察庁広域重要指定事件」のうち、未解決となったのは2件のみ。グリコ・森永事件の114号と、同じく西宮市内で発生した87年の「朝日新聞阪神支局襲撃事件」をはじめとする一連の「赤報隊事件」の116号だけだ。 (井上太郎、小川 晶)

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