「桜の下で宴会」は秀吉が発祥!? 意外と知らない「花見」の歴史【専門家が解説】

(※写真はイメージです/PIXTA)

毎年この時期の定番行事になっている「お花見」。いまでは桜の木の下で宴会のように皆でわいわい楽しむのが当たり前になっていますが、そもそもお花見の文化はいつごろからどのようにして始まったのでしょうか? 山陰地方で呉服店を経営する、日本文化にも詳しい池田訓之氏が、お花見の歴史について解説します。

「桜」の名前の由来

桜とは、春にピンク色の花を咲かせる落葉樹を指しますが、桜の柄は100円硬貨やラグビー「さくらジャパン」のユニフォーム等々多くの場面で使用されていますね。筆者が日々扱っている着物の柄でも桜は定番です。なにより春先になると、多くの方が桜の花の下でお花見を楽しまれています。このように桜はとても人気があり、事実上の日本の国花といわれていいますが、そもそもなぜ、桜(さくら)と呼ばれるのでしょうか? これにはいくつかのいわれがあります。

1つ目は、桜の花が咲きほこるので、「咲く」に「多くの」という意味の「ら」がついて「さくら」とよばれるようになったとか。

2つ目は、富士山の噴火を抑えるために宿る火の女神である「このはなさくやひめ」が、富士山の頂から種をまき、その花が全国に広がったので、「さくや」姫から「さくら」と呼ぶようになったと言われています。

そして3つ目は、「さ神」という神様が宿る木であるからだといわれています。「さ」とは神霊という古語で、山には「さ神」様がいらっしゃり我々を見守ってくださっているという「さ神信仰」が古来より日本にはありました。この「さ神」様が春に山から下りてこられて、憑依する木だから、「さ座(くら)」と呼ばれてきたというのです。神が宿る木だから、古来より民は満開の桜に酒とご馳走を捧げていたのでした。

花見はもともと「梅見」だった

一方で、花見はもともとは桜ではなく、梅見をしていたそうです。梅は奈良時代に遣隋使とともに中国から伝わった薬草で貴重な花木。貴族は舶来品であり数少ない梅を通じて日ごろ健康を維持する傍ら、梅の花の下で歌を詠むという梅見を楽しんでいました。それが平安時代に入ると、花見は梅から桜に変わっていきました。

花見が梅から桜に変わった理由は諸説あります。

1つは、中国への遣唐使が廃止され、日本独自の文化を築く機運が高まったなかで、外来種の梅から国内に生息している桜に興味が変わったから。また、御所が火災になり、愛でていた多くの梅が消失し梅見が難しくなったから。ほかにも、嵯峨天皇がたいそう桜好きだったから……などが理由といわれています。

実際812年には、嵯峨天皇主催の桜の花見会が催されたことが、最古の正式な花見会の記録とされています(日本後記)。これを機会に貴族のあいだで、桜の花見が広がっていきます。やがて武士が権力を握る時代になり、武士階級のあいだでも花見が開催されるようになっていきます。特に豊臣秀吉は花見をどんどん開放的にしていきました。

豊臣秀吉が開いた花見

秀吉が開いた吉野の花見(1594年)は、徳川家康、前田利家、伊達政宗などそうそうたる武将や、茶人、連歌師など、5000人を引き連れて行われました。そして歌の会、茶の会、お能の会など盛大な花見の宴が開かれたようです。さらに、1598年には、京都「醍醐の花見」が開かれました。この花見のために醍醐山に植樹された桜は700本、招待された1,300人の女性には1人に3枚ずつの着物が与えられ、2回の衣装がえが命じられました。また、全国から献上された銘酒や銘菓も振舞われました。

花見といえば、感謝の気持ちを捧げる儀式あるいは歌や芸のお披露目会であったのが、「醍醐の花見」を契機に、花見をしながら宴を楽しむというスタイルに変わっていったといわれています。

江戸時代に庶民へも浸透

といってもこのころは、特権階級だけに許された宴。一般庶民が桜の下で宴を開きだしたのは江戸時代になってからです。三代将軍家光が上野に桜を植樹、八代将軍吉宗が浅草や飛鳥山に植樹、その後も各地に桜の名所が築かれました。桜の交配も進み、現在もっとも人気のあるソメイヨシノを始め、江戸末期には250~300種類も開発されました。そして、庶民のあいだでも花見は春の行楽行事となり、お弁当を食べ、お酒を飲む習慣が広がりました。

明治時代に数は一時激減も、徐々に全国へ広がる

時代が明治に移ると、日清、日露戦争の影響で武家屋敷や貴族が所有していた庭園は次々と取り壊され、桜は燃料として燃やされ桜の品種は激減します。

そんな桜には厳しい時代に、たとえば駒込の植木職人高木孫右衛門は80種類以上の桜の種を保存し、のちにその種が荒川に植樹され1910年ごろには桜の名所となります。このような植木職人の努力で桜は全国に広がっていき、桜の本来の生息エリアでない北海道にも1916年から本格的に植樹がなされました。そして現在では北海道から沖縄まで全国で花見が行われています。

日本の花見文化に世界が注目

梅はもともと中国から入ってきた植物ですし、桜は日本だけでなく欧米からアフリカまで広い地域で咲きます。そして、その咲く花を眺める風習はどこの国でも存在します。

しかし、日本人のように、感謝の酒を捧げたり、花の下で長時間宴を楽しんだりする民はまずいません。日本の花見は世界でも独特の文化なのです。筆者はコロナ前にはロンドンで着物店を営んでおりました。その折英国人に誘われて、桜等々が咲きほこる公園を散歩したことがありますが、本当に散歩するだけでした。日本人のようにそこにシートを敷いて、お弁当を広げ、長時間花のそばで時を過ごす人は見当たりませんでした。

こんな行動を自然にできるのは、日本人の胸には、和の心が宿っているからだと思います。和の心とは万物に神様が宿ると信じて感謝する心です。日本という国は、温暖で種を蒔けば作物に恵まれ、また島国で外敵に荒らされることもなかったので、隣人と手を取り合い、自然の恵みを享受して生きてくることができたのです、だから我々は万物に神様を感じ感謝する心を持ちえたのです。

我々にとって、梅は薬草であり災いを払ってくれる神木、また桜は「さ神さま」という山からいつも我々を見守っていて下さる神霊が宿る木です。つまり、我々の花見は、単に花の美しさを感じるだけではなくて、我々の命を守り支えて下さっている花木への感謝の気持ちを確認する時間なのです。そのために自ずと花木のそばで、ずっと時を過ごそうとするのです。

昨今は、日本の花見を楽しみに入国してくる外国人が年々増えています。一度日本の花見を体験してみると、楽しいだけでなく心が洗われると、口コミでどんどん拡がっているのです。

我々にとっては、当たり前の行事である花見、今世界レベルで自然破壊の危険が深刻化するなかで、花見に流れる、和の心が注目されているのです。

池田 訓之
株式会社和想 代表取締役社長

© 株式会社幻冬舎ゴールドオンライン