今も昔も「食べ物の恨み」は恐ろしい!?…〈桜田門外の変〉後に噂された「井伊直弼」暗殺の真相とは【歴史】

日本人は、肉や卵をいつから食べるようになったのでしょうか?使われる食材や調理法は、時代の中で国際交流や政治経済が大きく影響してきたと、作家・生活史研究家である阿古真理氏はいいます。肉食の解禁や養豚の歴史…阿古氏による著書『おいしい食の流行史』(青幻舎)より、バラエティに富み、豊かになっていく食文化の日本史を見ていきましょう。

「豚一殿」と呼ばれた徳川慶喜

史上最も肉食へのタブー意識が強かった江戸時代にも、医師が薬になるといって奨励したなど、肉食を求める人々はいました。また、『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼』(飯野亮一、ちくま学芸文庫、2019年)によると、17世紀終わりごろから始まる元禄時代に、彦根藩の牛肉の味噌漬けが武士の間で評判になっています。彦根藩主の井伊家は、味噌漬けを将軍家や御三家、老中などに献上していたからです。

『拙者は食えん!』によると、中でも水戸藩主の徳川斉昭が牛肉好きで、彦根藩主で大老になった井伊直弼が厳格に牛肉食を禁じて牛肉を贈らなくなってしまったことに怒り、対立するほどだったそうです。そんな井伊直弼が、結局肉食への道を開く日米修好通商条約に調印したのですから、歴史とは皮肉なものですね。

しかし、井伊直弼は桜田門外の変で水戸藩士らに暗殺されます。そのことに対し、牛肉を贈らなくなったからだ、という噂がまことしやかに流されていたそうです。

徳川斉昭は、薩摩藩主の島津斉彬から贈られる黒豚の塩漬け肉も喜んで食べていた人です。徳川斉昭の七男でのちに最後の将軍になる慶喜は、父親に輪をかけた豚肉好きで、家臣から「豚一殿」と呼ばれており、将軍になると、世間の人々から「豚将軍」「豚公方」などと呼ばれたそうです。

大の「豚肉」好きだった西郷隆盛

今、薩摩藩の黒豚の話が出ましたが、薩摩藩は外様で江戸から遠かったせいか、琉球を支配下に入れていたせいか、肉食の禁忌がありませんでした。日本SPF豚研究会の雑誌『All About Swine』で発表された「江戸時代における豚の飼育と薩摩藩」(井上忠恕、2018年)によると、豚は「歩く野菜」と呼ばれ、自家菜園を持つように自家飼いすることが珍しくないほど親しまれていました。

江戸の薩摩藩邸でも豚が飼育されていましたし、『拙者は食えん!』によると、西郷隆盛は大の豚肉好きで、特に脂身を好んでいたといわれています。

薩摩藩で養豚が始まったのは、戦国時代に活躍した島津家久が、侵攻した琉球から移入したことがきっかけです。『琉球の風水土』(木崎甲子郎・目崎茂和、築地書館、1984年)によると、琉球では14~15世紀から養豚が始まっていて、盛んになったのは1605年に中国からサツマイモがもたらされ、餌が豊富になったことがきっかけなのです。

そのころ、薩摩にも豚肉が入る。サツマイモも入って、多くの日本の人たちを飢えから救うようになります。養豚は中国からもたらされました。中国は豚肉食が盛んですが、日本の豚肉料理は中国と沖縄から学んだものがベースになって、始まっているのです。

少し話が飛びますが、『オムライスの秘密 メロンパンの謎』(澁川祐子、新潮文庫、2017年)によると、大正時代に『田中式豚肉調理二百種』(中村木公編、博文館、1913年)、『田中式豚肉料理』(玄文社出版部、1919年)という2冊の豚肉レシピ本を出した人がいました。

著者は東京帝国大学教授の田中宏で、豚の解剖学の権威でした。レシピを考案するにあたり、田中教授が参考にしたのは、沖縄や中国の豚肉食文化です。これらの本がきっかけで定着した料理の代表が、豚のショウガ焼きでした。

最初の話に戻すと、沖縄の豚肉食が有名だったからこそ、豚肉の鍋を、幕末の人たちは琉球鍋と呼んだのですね。豚は、江戸時代の日本でも、医師の解剖研究のためや、どぶの汚れや台所から出る汚水処理のためなどの理由で飼われていました。時代劇には出てきませんが、実際の江戸の町では、人々は豚とともに暮らしていたのでしょう。

江戸時代後期の人々の、貴重なタンパク源となったのは…

外食店が江戸・京都・大坂で誕生しふえていったのは、江戸時代後期でした。外食店で流行った鍋の最初は、鳥を食べさせる店のものです。鳥といっても鶏ではなく、がん鍋屋、しゃも鍋屋などです。特に繁盛したのががん鍋屋でした。

表立って肉食が禁じられたとしても、人はタンパク質を摂らなければ生きていけません。大豆は親しまれていましたが、それだけでは足りなかったのでしょう。人々は野鳥を好んで食べていました。しかし、『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼』によると、徳川吉宗が1718(享保3)年に鳥肉食を限定するお触れを出していて、ニワトリの肉を食べる習慣が広まっていきます。野鳥を乱獲し過ぎたのです。

『やきとりと日本人』(土田美登世、光文社新書、2014年)によると、ニワトリの鶏鍋が流行ったのは1804(文化元)年以降で、京都や大坂では「かしわ」と呼んでネギ鍋として食べ、江戸では「しゃも」と呼んで同じような食べ方をしていたそうです。江戸時代には卵料理が人気になったので、採卵用の鶏を廃鶏にする際に食べるようになりました。何年も生きたので固くなった肉を柔らかくするため鍋料理にしたのでしょう。

室町時代まで、日本では卵を食べる習慣がありませんでした。しかし、南蛮人たちが食べているのを見て、やがて食べるようになったようで、宣教師のルイス・フロイスがそのさまを記録しています。

東京の人形町にある親子丼の店、「玉ひで」は創業が1760(宝暦10)年、当初はシャモ料理の店だったそうです。両国の「かど家」(2018年閉店)は1862(文久2)年、京都・木屋町の「鳥彌三」は、1788(天明8)年創業です。

阿古 真理
作家・生活史研究家

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