没後50年

 〈…逝去の報をけさ聞いた。ことしは長い寒さが続いて、やっときょう春が来て桜が爛漫(らんまん)という日であった〉-被爆医師の秋月辰一郎が1974年4月10日付の本紙にこんなふうに始まる一文を寄せている。彼女の最期の地となった大阪の桜はもう咲いていただろうか▲長くは生きられまい-医師の職業眼にはそう映っていたのだろう。〈お決まり文句の『突然の死去に真実を疑う』というのでなく、今まであの肉体で生きておられたのが真実かと疑うくらいであった〉▲23歳の時、爆心地から1.8キロの勤務先で原爆に遭った彼女は、後遺症と闘いながらその非人道性を告発し続けた。生活の困窮を隠さず訴え、巨費を投じた平和祈念像建設に強烈な疑問をぶつける。「石の像は食えない」▲〈日本人の大部分は食べること、衣服を得ること、住居を得ることに営々と努力していた。原爆のこと、戦争を、酷さをいうことは…片すみにひっそりとしていたのである〉-沈黙の中で彼女の生は強い光を放った▲〈怨(うら)む気力さえ失った被爆者に代わって、原爆の非道を思い続けた得難い人であった〉と、秋月はその死を惜しみ〈原子野の暗い空の星がまた一つ消えた〉〈暗夜の炬火(きょか)だった〉と寄稿を結んでいる▲彼女-。被爆詩人の福田須磨子が亡くなって今日で50年。(智)

© 株式会社長崎新聞社