「台湾の奥能登」襲った震災 傾いたビル、輪島と重なる 台湾地震ルポ・坂内本社編集委員

地震の揺れで傾いたビルの前で夜中まで待機する報道陣=4日午後8時20分、台湾・花蓮(坂内良明撮影)

  ●山で隔てられ、脆弱な交通網

 【台湾・花蓮=坂内良明】10度目の能登取材から金沢へ帰った翌日、3日朝に台湾の大地震の報に接した。無残に傾いたビルの映像が、元日の地震から3カ月たった今なお輪島で見る光景と重なる。台湾の人が能登に送ってくれている温かい支援を思うと、とても人ごとには見えない。その日の夕方、紙面会議で編集局長がつぶやいた。「台湾、行かんなんな」。明けて4日、小松空港から台北便に飛び乗った。(能登半島地震取材班)

 小松から台湾へのフライトは3時間余。1月頭の金沢-能登よりも短い。台北の街は「通常運転」のようだった。一見したところ、地震の爪痕は見当たらない。

 台北から、最も地震の被害が大きかった花蓮へ向かう鉄道も、普段通り運転していた。切符を買い、列車に乗り込む。駅のコンビニで買い求めた地元新聞4紙を広げると、どこも一面で地震のニュースを扱っており、初めて「被災地入りした」感を覚えた。

 台北から花蓮は直線距離で120キロ、鉄路で200キロ弱ある。金沢-奥能登と、やや似た感じだろうか。所要時間は2~3時間台という点も似通っている。

  ●能登の日本海に見えた

 列車に揺られて1時間ほどたつと、左手の窓から海が見えだした。太平洋だ。ただ、平地がほとんどなく、緑豊かでのどかな海岸風景が広がり、まるで日本海側の能登のように見えた。

 地震の痕跡らしきものは、車窓からは見えない。そのうち日が暮れた。花蓮に着いたのは現地時間午後7時過ぎ。1時間の時差を考えると、日本での締め切り時間まで間もない。花蓮市は人口約10万人。タクシーをつかまえ、被害の大きい中心部へ急いだ。

 ライトに照らされた、傾いた茶色のビルが見えた。規制線の前に、メディアが集結している。ビル倒壊の恐れは小さいとのことだが、万が一の事態に備えているのだろう。

 「きのうは台北からの鉄道も道路も使えなかったんだ。台東経由で車で走って、6時間以上かかったよ」。仲間と休憩していた西南部の大都市・高雄のテレビ局のカメラマン李威翰(りいかん)さん(26)が言う。その言葉を聞き、頭の中で台湾の地図を思い返した。

 台湾の主要都市である台北、台中、台南、高雄はいずれも島の西岸に連なる。台湾の大動脈である新幹線も、これらの都市をつないで走る。

  ●東側は「裏台湾」

 西側が台湾の「表」。それに対し、3千メートル級の山脈で隔てられた花蓮など東岸は言ってみれば「裏台湾」だ。脆弱な交通網が寸断されると容易に孤立する。

 日本海側もその昔「裏日本」と呼ばれた。台湾東岸の風景が日本海側の能登に見えた理由が分かった気がした。今回の地震は、やはり人ごとではない。余震が続く花蓮の夜の町で、強くそう感じた。

 石川県出身の八田與一(よいち)技師が100年前、台湾で農業水利に尽くした縁で石川と台湾は深く結ばれ、能登半島地震が起きると、台湾の人々が支援に駆けつけてくれた。北國新聞記者として、いち早く現地に飛んだのは、報道面から台湾を支えるためだ。

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