OGシャーク土屋のプロレス人生 いじめられっ子のお嬢様から大ヒールへの大変身

【WEEKEND女子プロレス♯6】

写真:新井宏「撮影協力:ノースウエストルート162ブロックビレッジ」

1989年10月6日、FMW旗揚げ戦でデビューしたシャーク土屋。クラッシュギャルズにあこがれてプロレスラーになるも、リングではヒール一筋。まさかの全日本女子プロレス乱入で対抗戦時代の口火を切り、団体内では工藤めぐみをターゲットに、鉄鎌や火炎殺法を駆使して悪の限りを尽くしてきた。

しかしながら幼少時代は「お嬢様」として育てられ、内向的な女の子だった。しかも小学1年生の頃からクラスメートの男子に目を付けられ、いじめられる毎日を過ごしていたという。

「おばあちゃんが地元でお医者さんをしてて、すごく有名だった。それで私は、『土屋家のお孫さん』と呼ばれてた。名前がなかったんだ。名前で呼ぶなんて家族くらいしかいなかったよ。もう、見た目からお嬢様でさ、高級な服を着せられてた。それですごい目立っちゃって、いじめの対象になっちゃったんだよね。腕にコンパスを刺されるわ、脚におでん乗せられて火傷するわ、田んぼに靴を隠されたり。誰にも言えず、我慢して学校に行ってた。あるときベルトで殴られて耳から血を流したときにはさすがにバレて親が学校に来たんだけど、それで余計にいじめがひどくなってね」

当時から身体は大きい方だった。が、先生にも親にも、クラスメートにも言えなかった。しかし4年生のある日、「強くなったらなんとかなるかも」と閃いた。その日から、自室でこっそりトレーニングを始めたのだ。するとどうだろう、みるみるうちに身体に変化が現れた。そして、リーダー格の男子を思いきって呼び出してみたのである。

「鍛えたらめきめきと力がついたのがわかってさ。その子を呼び出してゴーンと殴ったの。一発でKO。そしたら逆転しちゃって、(いじめっ子が)みんな怖がって誰も寄り付かなくなっちゃった(笑)。そしたら自分に自由を感じてね、友だちに話しかけられるようになった。こっちから遊ぼうよって声をかけて、ふつうに遊べるようになったんだよね。それで自信ついちゃって、鍛えるのも続けてた。それで中学校に行ったら、不良になっちゃってさ。反動だよね(笑)」

写真:新井宏「撮影協力:ノースウエストルート162ブロックビレッジ」

中学では、女子プロレスのクラッシュギャルズを知った。しかし、家ではお嬢様で通っている。親はプロレスを見ることを許さなかった。しかし、「勉強してくる」と偽り自室にカギをかけ、全日本女子プロレス中継をビデオで録画しまくった。ちなみに居間はVHSで、2階にある土屋の部屋(12畳)はベータだった。

「同級生の男子がクラッシュが好きで、『かっけーぞ』って話を聞いて見てみたんだよ。なんだこれ!となったね。自分が強くなったと思ったら、もっと強いの極みがいた(笑)」

自分もプロレスラーになろうと思い、ジャパン女子プロレスのオーディションに応募した。しかし、結果は不合格。ところが…。

「自分はダメなのかと思ったんだけど、大将(大仁田厚)の会社で事務員してた知り合いがいてさ、団体のロゴマークを必要としているって話を聞いたんだよね。私はその頃デザインの学校に行っててね、ロゴを描いてみたの。それを持っていったら大将がいてあいさつしたら、『いまからプロレス団体をやるんですけど、身体大きいし女子部もあるから(プロレス)やらない?』と言われて、じゃあやりますって答えたんだよね」

写真:新井宏「撮影協力:ノースウエストルート162ブロックビレッジ」

デビュー戦・工藤めぐみとの抗争・対抗戦時代

FMW初期のロゴマークは土屋のデザイン。ロゴが採用されたばかりか練習生として入団した。とはいえ、旗揚げ前の団体で、当時は男子と女子が同じ団体に所属するなど考えられない時代だ。不安はなかったのだろうか?

「いや、不安はなかった。大将から『誰もやっていないプロレスをめざす』と言われて、むしろおもしろいと思ったね。男も女も全部ひっくるめて1位取れたらすごいでしょ」

そしてFMW旗揚げ戦、1対3のハンディキャップマッチにおいて本名の土屋恵理子でデビュー。最初からヒール志向だった。

「自分はヒールしか考えてなかった。確かにクラッシュにあこがれて入ったけど、対抗してたダンプ松本さんを見て、なんだか知らないけど自分は絶対にヒールがいいと思ったんだよね。実際、試合を引っ張るのはヒールだったよ。ヒールが試合の主導権を握る。強いのはヒールでいい。キャーキャー言われるのはベビー。そうじゃなきゃいけないし、ヒールが強いからこそベビーの人気が上がるんだ」

写真:新井宏「撮影協力:ノースウエストルート162ブロックビレッジ」

全女を引退しFMWで復帰した工藤が、ヒールからベビーターン。土屋のターゲットが、工藤になった。女子初の有刺鉄線デスマッチ、女子初のノーロープ有刺鉄線デスマッチ、いずれも工藤との抗争から生まれた闘いだ。

「凶器や火炎殺法は(ミスター・)ポーゴさんから直接学んだと言うより、見て盗んだもので、工藤との闘いで築いたものだと思う。工藤とやる有刺鉄線と、ほかの人とやる有刺鉄線では全然違う。工藤とやる有刺鉄線は気持ちも違うし、有刺鉄線の中の世界が違う。どういうことかと言うと、敵なんだけど(工藤は)一番信用できる人。だから有刺鉄線の中に入っても、あの人がいるなら怖くない。敵なんだけど、このリングに入ればちゃんとした自分が出せるという安心感がある。工藤さんがどう思ってるかは知らないけどね。つまり、思った通りに思いきりできるということ。だってさ、いくら殺そうとしても絶対にこの人は死なない、絶対に立ち上がってくるでしょ。いい加減にしろよってくらいに立ち上がってくるからさ(笑)」

両者の抗争は熾烈を極め、工藤引退試合の相手も土屋になった。97年4・29横浜アリーナでの「ノーロープ有刺鉄線電流爆破バリケードダブルヘルデスマッチ」だ。

「引退すると聞いて、その前にぶっ潰してやろうと思ったの。引退するならとことん潰してやろうとね。だけどあの人は、引退試合さえも勝ち逃げしやがった」

この試合には、WWA女子&インディペンデントワールド世界女子の2冠王座もかけられていた。同年3・21仙台で、引退ロードの工藤から土屋が奪取したタイトルだ。過激なデスマッチがクローズアップされる引退試合だが、タイトル戦でもあったことは意外と忘れられている。「工藤さんにはいまだに会うたびに『勝ち逃げ』『勝ち逃げ』って言ってる(笑)。あの人がFMWで引退してから一度も復帰していないのは信念だろうけど、もし、もしも復帰するとしたら、自分と有刺鉄線(デスマッチ)だよ(笑)」。ベルトがかかっており、土屋が王者だったからこそ、「勝ち逃げ」のイメージが離れないのだろう。

写真:新井宏「撮影協力:ノースウエストルート162ブロックビレッジ」

とはいえ、奪われた2冠王座は同年9・28川崎スタジアムでのアジャコングとの王座決定戦で奪回した。アジャと言えば、土屋は対抗戦時代の主役のひとりでもあった。なにせ、女子プロレス団体対抗戦という大ブームのきっかけを作ったのが土屋だったのだから。

92年7月15日、全女の大田区体育館にFMWの土屋&前泊よしか(クラッシャー前泊)が何の前触れもなく突如出現。会場は騒然となった。2人の目的は、WWWA世界タッグ王者の山田敏代&豊田真奈美に挑戦状を突きつけることだった。

「あれはムカついたよね。だって、フジテレビのクルーに不審者扱いされたんだよ。押されて蹴られて殴られて。セコンドについてた全女の子に、コイツらどかしてくれと言ったのはおぼえてる。怒ったよしかちゃんが八つ当たりして放送席に『このクソジジイ!』って言ったらすごいクレームになってさ(笑)」

この乱入を契機に、FMWはもちろん、JWP、LLPWなども含む団体対抗戦に突入。97年には土屋、ライオネス飛鳥、イーグル沢井の平成裁恐猛毒GUREN隊で女子プロレス大賞を受賞した。工藤引退後、98年には土屋がFMWを離脱するも、他団体の大物選手との闘いは続いたのである。

「アジャからベルト取ったことはおぼえてない(笑)。でも、デカさが違うし、すげえなって思った。強いヤツには悪知恵使うしかないじゃん。自分には手下がいっぱいいたから、アタマ使ってモノ使って、いいとこどりした。長与千種戦では、ふつうならあこがれの人が目の前に立ったら感激して足が震えるとかなるのに、全然そういうのはなかった。確かに、長与千種だ!と思ったけど、自分は対等に思ってたから。いや、上だと思ってた。とにかく、誰であろうとメイクをしてリングに上がってるときは相手をぶっ殺そうと思ってやってたからね」

写真:新井宏「撮影協力:ノースウエストルート162ブロックビレッジ」

病魔との闘い・引退・ラストリング

ヒールを貫いてきた土屋だが、病魔におかされリングを下りることになってしまう。2015年8月に糖尿病で入院し、右脚が義足に。乳がんも患い、16年11月24日に超戦闘プロレスFMWで引退セレモニー。引退試合はおこなっていない。

が、昨年7月9日、FMWEの鶴見青果市場に前泊とともに参戦。「猛毒隊ラストリング」と銘打ったタッグマッチで相手を血だるまにしてみせた。遅れてきた事実上の引退試合と言っていいだろう。

「よしかが最後だっていうから、ちょっと上がってみた。凶器使って暴れてたらゴング鳴らされて(反則負けで)終わっちゃった。あっという間にね」

最後までらしさを貫いた土屋。いまでもときどきプロレス会場に足を運ぶらしい。おもな目的は「団体の礼儀を見るため」と、「終生のライバル工藤めぐみ(現ゼロワンGM)」の健在ぶりを確認するためだ。

「飛鳥さんや沢井さんと組んで闘うのは、それはそれですごい楽しかった。でも、ヒールって倒しがいのあるベビーがいないとおもしろくないんだよね。病気をしなければいまでも現役でやってるだろうけど、工藤がやめてからはあまりおもしろいことがなくなってしまったというのが本音。工藤に匹敵するベビーなんて現れなかったし、いるわけないでしょ。いまでも自分にとっては工藤めぐみが一番だし、女子プロ界で一番かわいいのは工藤めぐみ。だからこそやりがいがあったんだよね(笑)」

写真:新井宏「撮影協力:ノースウエストルート162ブロックビレッジ」

最高のライバルに出逢えたことで、土屋はシャーク土屋としてプロレス史に名を残した。では、土屋にとってプロレスとはなんだったのだろうか?

「プロレスとは、自分を一番出せるものかな。自分自身が出せる、自分の好きな場所。自分の名前がついた場所だよね。『土屋家のお孫さん』じゃなくて、シャーク土屋になった場所。名前で呼ばれることのなかった自分がプロレスラーになり、シャーク土屋になった。子どもの頃はずっと遠慮して、いじめられても誰にも言えず、あれ言っちゃいけない、これやっちゃいけないって閉じこもってた。その反発でシャーク土屋になったら、やっちゃいけねえことなんてありゃしねえだろとか、誰もやってないことやってやろうと思えるようになった。ヒールのメイクをしたら誰にも遠慮しなくていい場所、それがプロレスだったんだよ。そして、それが本当の自分だと気づいたんだ」

インタビュアー:新井宏

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