熊本地震から8年…復興の道しるべは住民同士の丁寧な意思疎通だった 方針巡り対立「満足できずとも納得は大切」 壊滅的被害受けた熊本県大切畑地区に学ぶ

再建された集会所「みんなの家」で復興までの道のりを説明する坂田哲也さん(左)ら=熊本県西原村の大切畑地区

 熊本、大分両県で計276人が犠牲となった熊本地震は、14日で前震から8年となった。山あいの集落が壊滅的な被害を受けた熊本県西原村では復興工事がほぼ終わり、集落再生の取り組みが続く。集団移転も取り沙汰された同村大切畑地区で復興の道しるべとなったのは、住民同士の丁寧な意思疎通だった。

 23世帯約80人が暮らしていた大切畑は16年4月16日未明、震度7の揺れに襲われた。ほとんどの住家が全壊し9人が生き埋めとなったが、住民が協力して救助し、1人の犠牲者も出さなかった。

 「チェーンソーやジャッキを使い2時間ほどで助け出した。避難訓練で集まる場所を決めていたから安否確認もスムーズだった」。住民の坂田哲也さん(67)は、再建した集会所に貼ってある写真を見せながら被災時の状況を説明した。

 坂田さんらは、倒壊せずに残った農機具倉庫を復旧本部にして道路、水道、記録、炊き出しの班を編成。毎朝避難所などから集まり、崩れた土砂やがれきを運び出し水源地から水を引くなど、自分たちの手で復旧を進めた。記録班の坂本英子さん(74)が作ったファイルには、住民が仮設住宅に入る7月9日までの出来事が細かく記してある。

■聞き取り■

 一つにまとまっていた集落では5月末、「集団移転」を巡る報道をきっかけに対立が生じた。地震を引き起こした布田川断層の真上に住み続けるか、国の事業を使って集団移転するか。村が「住民意思を尊重する」と表明した後、方針を巡って「安心できる場所に家を建てたい」「先祖代々の土地を守りたい」と意見が食い違った。子どもが怖がって元の土地には住めないという人もいた。

 村職員で当時、新潟県の公益財団法人から復興支援のため派遣されていた佐々木康彦さん(45)は、04年の新潟県中越地震で集団移転に関わった経験から、集落の話し合いを一時中断して世帯ごとの聞き取りを行った。各家庭の事情を把握した上で、女性のグループや30~40代のグループも作って話し合いを重ねた。地質学の専門家を招いて断層や地震のメカニズムも説明してもらった。

 「全員が満足しなくても納得する復興計画を作ろうと毎週話し合った。行政も交えてみんなが納得していく過程が大事だった」と坂田さんは当時を振り返る。

■過程を大事に■

 集団移転をしない方針を決めた大切畑は17年7月、県内でいち早く復興計画を策定し、宅地造成や避難道路の建設が進んだ。24年3月末の人口は19世帯37人で被災前から半減したが、集落を出た人も近くに家を建て、年間行事や共同作業に参加する。佐々木さんは「みんなで話し合った過程があったからコミュニティーを保てた」と話す。

 過疎地の復興をめぐり、今年1月に発生した能登半島地震の被災地では集団移転の議論もある。佐々木さんは「大切畑で出た答えが能登での共通解になるとは限らないが、前例にはなる」と考える。「集団移転をコスト面から論じるのではなく、どんな復興ができるか、知恵を出し合って考える過程を大事にしてほしい」と力を込めた。

〈関連〉復興工事の記念碑前に立つ坂田哲也さん=熊本県西原村の大切畑地区

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