悲劇の武将、福島正則は鹿児島で最期を迎えた? 墓から大男の骨…伝承残る南さつまの石碑に歴史ファンは興味津々

福島正則公(愛知県あま市の菊泉院所蔵)

 秀吉や家康につかえた尾張国(愛知県)生まれの武将福島正則(1561~1624年、愛知県あま市の菊泉院所蔵)が、幕府の追及を逃れ、晩年を過ごしたとの伝説が鹿児島県南さつま市加世田小湊に残っている。「福島正則公終焉(しゅうえん)之地」と刻まれた石碑(墓)がその物語を伝えるが、近年は草木に埋もれていた。住民たちは「後世に語り継ごう」と一念発起。バスツアーを開くなど盛り上がっている。

 正則公は秀吉の没後、石田三成と対立し家康側についた。関ケ原の戦いで武勲をあげ安芸・備後(広島県)50万石を拝領。敵中突破を図る島津義弘に退路を開いたとの説もある。その後、広島城を無断修築したとして領地没収に。転封先の信濃国(長野県)で死去したが、検視前に火葬したため家は取りつぶされた。

 小湊の言い伝えによると、検視を避けた正則公は義弘公との縁で小湊に逃れ、医師として余生を送った。墓から大きな骨が発掘され、大男だったという正則公と判断。1941(昭和16)年に一族が石碑を建てた。

 3月末のツアーには住民約30人が参加した。主催した校区自治公民館連絡協議会の松元正明幹事(67)は「勇猛ながら悲劇の武将として知られる。歴史ファンが訪れる地になれば」と期待。一族という福島大寛さん(77)は「誇りとしてきた正則公伝説を広めたい」と話す。生誕地である愛知県あま市の市美和民俗歴史資料館の近藤博館長は「ロマンある話。郷土の英雄正則公を大事していただきありがたい」と話す。

 尚古集成館(鹿児島市)の松尾千歳館長は、島津義弘と福島正則は秀吉の朝鮮出兵でともに戦い、関ケ原後も交流があったと説明。「加世田に来たという話は信じがたいが、そう伝わっているのも一つの史実。伝承は伝承として地元で大切に受け継いでもらいたい」と語った。

(石碑も大きかった…)「福島正則公終焉之地」と記された石碑を見上げる住民=南さつま市加世田小湊

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