困難にあっても描く姿に「生きる力をくれた」 星野富弘さん死去、群馬県内外の関係者が惜しむ 飾らない人柄を懐かしむ声も

口に絵筆をくわえて制作する星野さん=1982年

 柔らかいタッチで描いた身近な草花や果物に、背中をそっと押してくれるような詩を添えた作品を生み出してきた詩画作家、星野富弘さん(群馬県みどり市出身)の訃報を受け、親交のあった関係者からは30日、別れを惜しむ声が相次いだ。けがで手足の自由を失うといった困難の中でも、作品を描き続けた姿に「生きる力をくれた」との感謝の声も寄せられた。

 旧東村立杲(ひので)小から桐生高時代を共に過ごした幼なじみで、富弘美術館(同市)の聖生清重館長(77)は「かけがえのない友達。不自由さを感じさせず、だじゃればかり言ってこっちが励まされた」と悲しみを押し殺しつつ、星野さんとのやりとりを懐かしんだ。

 中学時代、地元の袈裟丸山に2人で登ったことは忘れられない思い出だ。縁あって2011年から同館館長を務めてきたが、大切にしたのは「遠くから来てくれる来館者に優しく親切に対応しろよ」という星野さんからの〝助言〟だという。「『作品は俺の子どものようなもの』とも言っていた。その子どもを預かっている身として作品を大事にしてきた」と振り返る。

 熊本県には、同館の姉妹館、芦北町立星野富弘美術館がある。町内の入浴施設の一角で作品を展示したことがきっかけで、住民から多くの要望を受けて06年に開館した。福田貴司館長(61)は「困難にあっても作品作りに取り組む姿勢が、町民に感動を与えたのだと思う。ファンがたくさんいる」と説明。「これからも温かく見守ってもらいたい」と悼んだ。

 1979年、星野さんは前橋市で最初の作品展を開いた。その際、当時入院していた群馬大医学部付属病院に美術を学ぶ1人の女子大学生が「(作品展)良かったです」と大粒の涙を浮かべてやって来たと、星野さんは著書に記している。

 前橋市で造形教室を開く筑井孝子さん(65)が、その人だ。「病院で富弘さんの母親は『たかちゃん、富弘といてね』と付き添いを任せてお風呂や買い物に行った。富弘さんといろんな話をしたが、飾らない言葉でよく冗談を言っていた」と当時を懐かしんだ。

 同大の寮で「同じ釜の飯を食った」という牧師の米谷信雄さん(78)=北海道北広島市=も、当時の富弘さんを見舞った。帰路で、富弘さんが「冷やし中華が食いてぇ」と漏らしていたのを思い出し、食堂で作ってもらい病室へ引き返したという。星野さんはその後、「自分の苦しみだけのために苦しみ、生きることを諦めていた自分を恥ずかしく思った」と著書で回想した。

 上毛ジュニア詩壇選者で、詩人の大橋政人さん(80)=みどり市=は「親しみやすく詩にユーモアもある。人間的には至って普通の人」と星野さんを分析しつつ「花や自然を見る目の鋭さ、深さがあった。身体的な部分に注目が集まりがちだが、詩そのものをよく読んでほしい」と訴えた。

 年齢も古里も近く、5年前に上毛新聞の紙上で対談もした。「大変な試練を乗り越え、自分の人生を肯定できたことは素晴らしい」とねぎらった。

企画展に合わせて、小中高校の同級生らとの鼎談(ていだん)に臨んだ星野さん(右)=2022年10月

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