《語る 星野富弘さん》(上)命の尊さ 小栗の墓に咲く赤い椿描きたい 上毛新聞 2003年1月掲載

自宅の庭に出た星野富弘さん。傍らにはいつも愛犬「みしん」がいる

 28日に78歳で死去した星野富弘さんは、2003年1月の連載「語る 星野富弘さん」で、複雑化する社会や、作品に込める思いを語っていました。記事全文を再掲します。

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 豊かになれば幸せになれる。そう信じて走り続けた社会が変わり始めている。出口の見えない不況。テロにおびえる国際社会。いつ始まるか予断を許さない戦争。原因はどこにあるのだろうか―。人々は自分たちの足元を見つめ直すことで、答えを探し出そうとしている。星野富弘さん(56)は手足の自由を奪われてから、口に絵筆をくわえ、詩画を描いてきた。花々が主役の小さな世界。しかし、そこにはすべての人間に通じるメッセージがある。星野さんが二〇〇三年の新春に語った。

 いのちが 一番大切だと 思っていたころ 生きるのが 苦しかった いのちより大切なものが あると知った日 生きているのが 嬉しかった

 星野さんの「花の詩画集 鈴の鳴る道」(偕成社)に収められた「いのち」。そこには難しい漢字や表現は使われていない。星野さんの作品はやさしい言葉遣いの中に、心に染み入るような響きがある。<いのちより大切なもの>。クリスチャンの星野さんには答えがある。しかし、それを万人に押し付けようとはしない。一人ひとりが見つければいいと考えているからだ。

 作品だけではない。星野さんの生き方そのものが、世に訴えているのは、命の重み、尊さ、そしてはかなさである。

 難しい言葉を使わないのは、私が知らない、それが一番の理由ですかね。自分で分からないことは書けないし、自分の身近なこと、知っていること、経験したことを書きますから。決して大きなこと書くから、広い世界のこと書くから、大きな広い意味を持つんじゃないと思いますね。本当に身近な小さいものの中に深いものというか…。それは花を描くようになってから、気付かされたことです。 普段、見過ごしているような小さな植物でも、じっと見ていれば、何十号というキャンバスに描かなくても、小さな絵に描いても、いくらでも描きでがある。驚くものも、感動も小さな花の中にあるし、教えられることもいっぱい出てくる。

 小さな花々は星野さんの筆で生命の息吹を与えられ、故郷から日本、世界へとメッセージを伝える。星野さんが今、描きたいのは東善寺(倉渕村)に葬られた幕臣・小栗上野介の墓の傍らにある八重椿(やえつばき)の花だという。

 小栗は徳川幕府最後の勘定奉行。幕末に遣米使節として渡米後、横須賀に製鉄所を造るなど、日本の近代化に尽くしたが、その先見性ゆえに薩長にうとまれ、知行地のあった倉渕村で斬首された。

 小栗らが立ち寄ったサンフランシスコで、詩画展が開かれた二〇〇一年九月のこと。星野さんは米国のメディアに「最近感動した本は?」と聞かれて、小栗の生涯を著した本を挙げ、「渡米前の春に小栗の墓を訪ねた」と語った。小栗への思いは強い。

 以前、行った時は、椿がまだ咲いてなかったんです。ですから今年の春ころもう一度…。椿の絵は椿の絵でしょうがねえ。描いた本人にしかこれは小栗の墓にあった椿だとは分からないと思うんですけど、描いている時はずっと小栗上野介のね、生涯を重ねながら描きます。

 なぜ、それほどまでに小栗にひかれるのだろうか。

 やっぱりねえ、そこで褒められたら、それでおしまいなんです。小栗が認められず、褒められずに生涯を終えたところに私はロマンを感じる。これ、非常にキリスト教的な考え方でもあるんですよ。だれからも認められないけれども、神様は見ていてくださる。クリスチャンとしてそういう生き方をしたいと思うんですよね。だれかに認められたからやる、褒められるからやるんじゃなくて、認められなくても、褒められなくても自分の思ったこと、やりたいことをやっていきたいなあと…。

 村には言い伝えがある。隠棲(いんせい)を決意した小栗は、鉢植えの八重椿を船荷で江戸屋敷から倉渕村に送ろうとしたが、届く前に非業の死を遂げてしまう。倉賀野の河岸に着いた椿は買い取られ、やがて墓ができると、傍らに植えられたという。以来、椿は毎年春になると、小栗の魂を鎮めるかのように赤い花を咲かせる。

星野 富弘さん(ほしの・とみひろ) 1946年4月、勢多東村生まれ。桐生高校、群馬大学教育学部卒。高崎・倉賀野中に体育教師として赴任したが、クラブ活動指導中にけがをして手足の自由を奪われる。9年間の入院生活中にキリスト教の洗礼を受ける。79年、前橋市で初の作品展開催。91年に東村立富弘美術館開館。著書に「愛、深き淵より」「風の旅」「鈴の鳴る道」など。新里村在住。

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