『ネバーエンディング・ストーリー』原作者ミヒャエル・エンデが望んだものとは?

『ネバーエンディング・ストーリー』あらすじ

いじめられっ子の少年バスチアンは、ある日、古書店で「ネバーエンディング・ストーリー」という書物と出会う。自分の興味に無関心な父親の態度や、いじめられる境遇にうんざりしていたバスチアンは、授業中の教室には行かずに、学校の天井裏で「ネバーエンディング・ストーリー」を読み始める。そこに書かれていたのは、「虚無」に覆い尽くされる危機に陥っている異世界の王国「ファンタージェン」を救おうとする少年アトレーユの冒険物語だった。やがてバスチアンは不思議な力に導かれ、本の中の世界に入っていく…。

世界で愛される児童文学作品の映画化


モモ」や「ジム・ボタン」シリーズなど、本国であるドイツだけでなく世界中でいまも愛される児童文学作品を創造したミヒャエル・エンデ。その代表作である「はてしない物語」が、『U・ボート』(81)で脚光を浴びていたウォルフガング・ペーターゼン監督によって、ドイツ、アメリカ合作で実写映画化を果たしたのが『ネバーエンディング・ストーリー』(84)である。

アメリカでは期待したほどのヒットには至らなかったが、エンデの文学作品同様、多くの国の子どもたちに夢と興奮をもたらしたことは間違いない。またアメリカにおいても、ビデオの普及によってカルト的な人気を獲得していったことで、いまでは名作として扱われるようになった向きもある。主にキッズを対象とした『グレムリン』(84)や『グーニーズ』(85)同様、公開当時に小中学生くらいだった年代にとっては、とくに思い出深いタイトルだろう。

また、リマールの主題歌「The NeverEnding Story」も話題を呼び、日本では歌詞が大幅に改変されて意味が分からなくなった、羽賀研二が歌うカヴァー曲がタイアップとしてリリースされている。

『ネバーエンディング・ストーリー』(c)Photofest / Getty Images

本作のストーリーは、いじめられっ子の主人公バスチアン(バレット・オリバー)が、古書店に置いてあった書物「ネバーエンディング・ストーリー」と出会うことで動き出していく。自分の興味に無関心な父親の態度や、いじめられる境遇にうんざりしていたバスチアンは、その日、通学まではしたものの、授業中の教室には行かずに、「ネバーエンディング・ストーリー」を学校の屋根裏部屋で読み始める。そこに書かれていたのは、ファンタジックな異世界の王国「ファンタージェン」の物語だった。

そこから映画は、学校の屋根裏で密かに本を読み続けるバスチアンの姿と、世界全体が「虚無」に覆い尽くされる危機に陥っている「ファンタージェン」を救おうとする少年アトレーユ(ノア・ハサウェイ)の冒険を交互に描いていくことになる。

アナログ作業が生んだファンタジーの世界


「ファンタージェン」の側で描かれるのは、まさに冒険ファンタジーの“王道中の王道”といえる内容。それだけに、映像表現の難度は非常に高いものとなっている。そんな世界観の構築を見事に成し得たのは、大がかりなセット、着ぐるみや人形の制作や操演など、アーティストたちが地道に一つひとつを作り上げたからに他ならない。撮影についても当初の予定の4倍もの時間をかけ、納得いくまで完成度を高めている。そんな丁寧なアナログ作業からは、CGで表現されることの多い現在のファンタジー映画にはない質感やリアリティが味わえる。

一方で合成などの面では、当時最大といわれるブルーバックを背景に撮影された素材のポストプロダクションを、ILM(インダストリアル・ライト&マジック)が担当。 “幸運の竜ファルコン(ファルコー)”が猛スピードで世界をめぐるスペクタクルなどが、当時の最新の技術により大スケールで表現されることとなった。

『ネバーエンディング・ストーリー』(c)Photofest / Getty Images

さらには、ペーターゼン監督と交流のあった、ヒットメイカーのスティーヴン・スピルバーグが、アメリカ(世界)公開版ではドイツ本国公開版の場面の一部をカットして、より娯楽作に近づけるようにタイトな内容にするなど、編集面で手助けしていることも知られている。その返礼として、スピルバーグは作品の象徴である首飾り「アウリン」のオリジナルの小道具を贈られ、オフィスに飾っているという。

本を読んでいるだけのはずのバスチアンが、いつしかファンタジーの世界に干渉していくという展開や、自分の創造力によって、荒廃した世界を新たに創造し直すという結末は、非常にエモーショナルだ。そこには、“創造力を持つことの素晴らしさ”というテーマが掲げられ、親や教師などから軽視されがちな“空想”が好きな子どもたちに、「空想をすること、現実ばなれした夢を見ることは無駄なことではない」というメッセージを発信し、クリエイティブなタイプの観客へのエンパワーメントにつながっているところがある。

原作者エンデが映画版を嫌った理由


しかし、そんな多くの観客に愛された映画『ネバーエンディング・ストーリー』を、蛇蝎のごとく嫌う人物が存在した。それが、原作者ミヒャエル・エンデその人なのである。エンデは映画版を「キッチュ、商業、ぬいぐるみ、プラスチックの巨大なメロドラマ」と呼び、ついには内容の一部撤回などを求め、裁判を起こすまでの対立が生まれたのだ。

当初、エンデはアンジェイ・ワイダ監督や黒澤明監督による映画化を望んでいたようだが、その希望は叶えられなかった。原作で「フッフール」と呼ばれる幸福の竜は、子どもの観客が親しみやすいよう、ふわふわした犬の顔に差し替えられたデザインとなったこともショックだったようだ。映画で描かれた物語にも、小説の前半部分の展開がメインとなるという大きな改変が加えられている。そして、なかでもエンデが嫌ったのは、バスチアンがファルコンに乗っていじめっ子に復讐するという結末部分だった。

『ネバーエンディング・ストーリー』(c)Photofest / Getty Images

エンデが結末部に対してそれほどに怒ったのには理由がある。原作に設定されたテーマは、たしかに“創造力を持つことの素晴らしさ”であることは間違いない。しかし一方で、創造力がもたらす危険性をも描いているのである。アトレーユを追いつめていく人狼グモルクは、“ファンタジー”が現実の人間世界における戦争や、帝国主義のようなよこしまな野望に利用されていることを指摘し、女王・幼ごころの君も、それには同意をしているのだ。

この創造力の持つ二面性、恩恵と弊害が示されることで、原作「はてしない物語」は、奥行きのある作品になっているといえる。後半では、傲慢さを魔術師に利用されたバスチアンが、アトレーユと確執する展開も描かれる。1990年に公開された『ネバーエンディング・ストーリー 第2章』において、その展開が一部描かれ、『ネバーエンディング・ストーリー3』(94)まで続編の製作が続くものの、原作が警鐘を鳴らしていた、創造力の危険性や権力志向とのつながりを、主人公を通して伝えようとする原作の深刻さにまでは、どちらにせよ届いてはいない。

映画を原作体験のきっかけに


本作『ネバーエンディング・ストーリー』に至っては、創造力を利用して、いじめっ子を痛めつけるといった、まさにエンデが危険性をうったえている態度を、爽快感とともに好意的に描いているという点で、「はてしない物語」の重要なテーマの一方がスポイルされるだけでなく、真逆のメッセージを発してしまっているといえよう。人類の負の歴史や、世界でいま起こっているさまざまな問題が、現実から目を逸らそうとする都合の良い物語が編み出されることで悪化している事実を考えれば、エンデの慧眼には感心させられるのである。

だが、映画『ネバーエンディング・ストーリー』が、熱いクリエイティヴィティが反映されるとともに、創造力の素晴らしさを掲揚した特別な一作になっていることも間違いのないところだ。魅力的なクリーチャーや、畏れや不気味さすら感じさせる不思議で壮大な世界が、これまでにない冒険の体験を、観客たち、とくに子どもの心に深く植えつけられることになったのも事実だろう。だから本作のファンには、これを素晴らしい入り口として、原作小説にも親しむことを提案したい。

『ネバーエンディング・ストーリー』(c)Photofest / Getty Images

ところで、このミヒャエル・エンデの「はてしない物語」、なんと再映画化されるという企画が、最近アメリカの業界誌で報じられたばかりだ。しかも一作のみではなく、複数にわたるシリーズになるのだという。あるいはこのシリーズ作品で、1995年にこの世を去ってしまったエンデの無念が晴らされることになるのかもしれない。

面白いのは、この再映画化の報に対して、映画『ネバーエンディング・ストーリー』のファンたちがSNSで、最初の映画版にリスペクトを払ったものにしてほしいと声を挙げているところだ。エンデが「キッチュで商業的」と呼んだ映画版は、いまでは一つの重要なクラシック作品として、それ自体が尊敬を集めるものにまで成長を果たしたのだ。

文:小野寺系

映画仙人を目指し、さすらいながらWEBメディアや雑誌などで執筆する映画評論家。いろいろな角度から、映画の“深い”内容を分かりやすく伝えていきます。

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