野村・星野・落合…名監督によって磨かれていった川崎憲次郎がトイレに逃げ込んだ日

「巨人キラー」として知られ、1990年代のヤクルトスワローズ(以下、ヤクルト)黄金期を支えた川崎憲次郎は、中日に移籍後の2004年に現役を退き、現在は野球解説者として活躍しながら、彼の故郷でもある大分県の魅力をさまざまな形で発信している。

いくつもの怪我を乗り越えて、日本シリーズのMVP(1993年)や、最多勝と沢村賞(1998年)獲得などの栄光を手にしたプロ野球人生。それらを成し遂げるために乗り越えてきた「土壇場」のエピソードを語ってもらった。

▲俺のクランチ 第53回-川崎憲次郎-

巨人ファンの野球少年が巨人キラーになるまで

大分県・津久見高校のエースとしてチームを春夏2度の甲子園に導いた川崎は、1988年のドラフト1位でヤクルトスワローズに入団し、プロ野球選手としてのキャリアを歩み始めた。

「高校3年のときには春夏とも甲子園に出場できましたし、九州ではほとんど負けたことがなかった。当時の僕は世間知らずなところもあったので、入団前には“10勝くらいはできるんじゃないか…?”と気楽に考えていたんですけど、実際にプロの世界に一歩足を踏み入れた途端に、厳しい現実をまじまじと思い知らされることになりました。

尾花(高夫)さん、荒木(大輔)さんをはじめとする先輩たちのピッチングを目にすると、その迫力に圧倒されるばかりで。“もしかしたら俺が足を踏み入れるような世界じゃなかったのかも……”と、プロの実力に恐れおののいたことを覚えています」

だが、1年目から先発として起用された川崎は、9月24日の対巨人戦でプロ初勝利を完封で飾ると、その後も4勝(4敗)1セーブの活躍。ヤクルトが名将・野村克也氏を指揮官に迎え入れた1990年には、先発として自身初の2桁勝利(12勝13敗)を挙げたが、巨人の吉村禎章にサヨナラ本塁打を許し、リーグ優勝を決められる(9月8日・東京ドーム)悔しさも味わった。

「かつては熱狂的な巨人ファンだった」という川崎の心には、この試合を境に強烈な巨人への対抗心が宿り、16年間の現役生活で、巨人を相手に積み重ねた白星は29勝(通算88勝)。じきに川崎は「巨人キラー」としても広く知れ渡ることとなる。

「僕が生まれ育った大分県は、巨人戦しかテレビ中継されないエリアでしたから、巨人戦の登板時には、自ずと気持ちが昂っていたように思います。首脳陣からは“打者のインコースを突け”と言われていました。

けれど、当時は今よりも厳しい上下関係があったので、さすがにそれは難しかったです。でも、“かつてテレビで応援していた選手たちに、自分の力を知ってもらいたい”という気持ちで、とにかく全力で投げることを心がけました」

▲1年目の新人なのにインコースを突けと言われてもね…

ボールを10cm変化させることで叶った夢

強気な投球でチームを牽引した川崎は、1991年も14勝を挙げ、ヤクルトの11年ぶりのAクラス入りに貢献。翌年もさらなる飛躍が期待されたものの、キャンプ中の怪我によって、一軍未登板のままシーズンを終えることとなった。

だが、川崎が不在のヤクルトは、苦しい投手事情をやり繰りしながらも阪神とのデットヒートを制してペナントを奪取し、14年ぶりのセ・リーグ優勝を掴み取った。

「前年まではそれなりに活躍してきたはずなのに、1992年は怪我をしたせいでリーグ優勝の歓喜の輪に加われなかった。それが何よりも悔しかったです」

さまざまな試練を乗り越えてきた川崎だが、現役生活で印象に残る「土壇場」のひとつは、ヤクルトが日本一に輝いた1993年の日本シリーズの第7戦だという。

この年、2年ぶりに戦線復帰を果たした川崎は、先発として10勝をマークし、ヤクルトのセ・リーグ連覇に貢献、カムバック賞も獲得した。そして、その年の日本シリーズでは、先発として2試合に登板。優勝を懸けた第7戦でも安定した投球を披露して、チームの日本一に貢献した川崎は、この年の日本シリーズMVPにも選ばれた。

「前年の無念を晴らしたいという気持ちと、憧れの日本シリーズで投げられるうれしさが入り混じったマウンドでした。いま改めて振り返ってみると、僕らが常勝西武を倒したことが、プロ野球の歴史の転換点になった瞬間だったように思えるんです。壮絶な試合でしたが、さまざまなツラい経験を乗り越えたからこそ、良い結果を引き寄せられたのではないかな」

1993年にカムバック賞を獲得して復活を印象づけた川崎だったが、翌1994年は6勝(9敗)と低迷。その後も怪我などで思うような成績を残せず、自分自身でも変化の必要性を感じていた頃、川崎の脳裏をよぎったのは野村監督の言葉だった。

「たしか1995〜6年頃だったと思うんですけど、野村監督が“シュートを投げてみろ”としきりに言うようになったんです。僕が渋っていると“ボールが内角にたった10cmズレるだけで、どれだけ打者が苦労するか。お前ら投手はわかるか?”と重ねてボヤいてくるんです(笑)。当時の僕は、まだまだ“速球で三振を取りたい!”という気持ちも強かったので、しばらくその言葉を聞き流していました。

でも、三振が奪えなくなってきている自分の状況に危機感を感じるようになってきて、思い切って野村監督に騙されてみるか、と思ったんです。現役時代に3冠王を獲得した野村監督も、シュートを苦手にしていたみたいですね」

“再ブレイク”を果たした川崎は、1997年には先発としてチームの日本一に貢献。1998年には17勝(10敗)を挙げて、最多勝と沢村賞のタイトルを獲得した。

「シュートを投げ始めたのは1997年のシーズン途中からでしたが、最初はほとんど誰にも気づかれていませんでした。でも、1998年のオープン戦が始まった頃から、少しずつ新聞の見出しに出るようになって…(笑)。

バレると対策されちゃうじゃないですか。それでもしばらく黙り続けてたんですが、結局シュートを投げています、と公に打ち明けたのは、その年の5月頃だったと思います」

右打者の内角をえぐり、ゴロを打たせて取る「シュート」を覚えたことで、川崎の投球スタイルにもさまざまな変化があったという。

「内角を攻めるという点では、“とても便利なボールだな”と思いました。三振を取りたいという気持ちを捨て、新たな投球スタイルを構築するまでには葛藤もありましたが、1年間しっかりローテーションを守るためには、打たせて取りながら球数を減らすことも考えなければならない。

僕の場合、もしシュートを身につけていなかったら、おそらく最多勝や沢村賞は獲得できなかったと思いますし、もしかしたら徐々にフェードアウトして、そのまま世間から忘れ去られていたかもしれない。ボールをたった10cm変化させるだけで、いくつもの夢を叶えられましたから、“野村監督に騙されてよかったな”と思っています」

3年間も一軍未登板なのにファン投票で1位

1998年には最多勝や沢村賞を獲得するなど、ヤクルトの中心選手として活躍してきた川崎は、2000年のオフにFA権を取得。MLBのボストン・レッドソックスと中日ドラゴンズによる争奪戦の話題で、スポーツニュースは連日持ちきりとなった。

記者たちに追いかけられ、ろくに寝られなかった日々に終止符を打ったのは、中日・星野仙一監督(当時)からの「巨人だけには勝ってほしい」の一言だったという。

「当時はまだ日本人メジャーリーガーが少なかったですし、ボストン・レッドソックスでプレーした日本人がいない状況だったので、メジャー挑戦に向けて気持ちが傾いていたんですが、実際に星野さんにお会いしてみると、星野さんが持っている巨人への強烈な闘争心に共感させられるところがあって、それが中日入りの決め手になりました」

星野監督の力のある言葉は、日米のどちらでプレーするか決めあぐねていた川崎の心を大きく揺さぶった。

「優しく穏やかな表情で語りかけてくる言葉に惹き込まれていきました。グラウンドでの厳しい表情とのギャップや明瞭な言葉に魅了され、気づいたら承諾してしまうような状況になっていたんです」

星野監督からの直接の言葉が決め手となり、川崎は中日と4年契約を締結。星野が現役時代に背負った中日のエースナンバー、背番号20を川崎が背負うこととなったが……。入団後には想像だにしなかった土壇場が待ち受けていた。

当時としては破格の4年契約(3年間は年俸2億円、4年目は出来高制)を結び、中日に移籍を決めた川崎だが、加入初年度のオープン戦で右肩を負傷。3年間一軍登板なしの状況に追い込まれた。

普段は目の前にある状況をプラスに捉えるように心がけているという川崎だが、地道なリハビリを続けながら壮絶な痛みと向き合わざるを得ない日々に、心が折れてしまいそうなこともあったという。

「試合で投げられていないことに対して、いろいろなことを言われることもありましたけど、何よりもツラかったのは、大好きな野球を取り上げられてしまっていること。肩が痛すぎて、走り込みくらいしかやれることはない。痛みが少しでも減ってくれることを祈りながら、“思い描いた通りのボールを投げるにはどうしたらいいか?”を必死に考えて、毎日を過ごしていました」

▲現役を引退して20年経った今でも肩は思うようには上がらないという

中日に移籍して3年の月日が流れた2003年、「とにかくきつい日々」に追い打ちをかける出来事が起こった。オールスターゲームのファン投票の際に、一部の心無いファンがインターネットで川崎への投票を呼びかけ、移籍してからの3年間、一軍未登板の川崎が投手先発部門の1位にランクインした。

「川崎祭」と言われたこの出来事は、ファン投票のあり方に対して一石を投じ、翌年以降はシーズン成績による選出基準が設けられることとなった。川崎は目の前の状況に戸惑いつつも、当時から恨みなどはなかったと話す。

「最初に票が伸びていることを知ったときは、“こんな状況でもまだ応援してくれる人いるんだ”とうれしかった。当時はインターネットのほかに、ハガキによる投票もあって、切手代を払ってまで僕に投票してくれた方がいることがわかったからです。さすがにお金出してまで、わざわざ嫌がらせはしないだろうなと思って……。

その年はオールスターに相応しくない選手だったので、僕は出場は辞退しましたけど、真摯な気持ちで応援してくれる人たちのために頑張ろうと思うことにしました」

落合中日の開幕投手になるも“誰にも言えない”

落合博満氏が新監督に就任した2004年、その初陣を飾る開幕戦(4月2日・ナゴヤドーム)のマウンドには川崎の姿があった。

中日へのFA移籍以降、右肩痛の影響で3年間も一軍登板がなかった川崎の起用は多くの人を驚かせ、2回途中5失点で降板することとなったが、広島の開幕投手の黒田博樹を攻め立てた中日打線の奮闘もあり、チームは逆転勝利(8対6)を収めた。

「年明け早々に、落合監督から電話がかかってきて、“開幕投手はお前で行くからな”と伝えられたんです。“なんで自分なんだろう…?”とは思いましたけど、別に断る理由もなかったので、その場で了承しました。監督は“嫁さんにだけは言ってもいいよ”と言っていたので、“チームメイトにも言っちゃいけないんだ”と解釈して、その日は電話を切りました」

落合監督の決断は、森繁和コーチなどの一部の者だけに共有され、チームメイトも開幕戦の当日に初めて知る選手がほとんどだったそうだ。

「落合監督からは“やっぱり投げられないとか、何かあったらすぐに言うように”と伝えられていて、春季キャンプに入ったあとも何かと気にかけてくださいました。時に話し込む場面もあったんですけど、まさか僕が開幕に向けて調整をしていようとは、おそらく誰も想像できないですよね。開幕戦が始まる30分くらい前、ブルペンに鈴木孝政チーフコーチ(当時)が入ってきて、“お前だったのか…!”と驚いていた姿が、今でも印象に残っています」

落合監督に率いられた中日は、この年のセ・リーグを制覇。落合の「何をしてくるかわからない不気味な采配」は、落合野球を語る要素の一つとして注目を集めることとなったが……。

「開幕の1週間くらい前に、ナゴヤドームのロッカールームでたまたま投手陣が集まってしまったことがあるんです。(投手陣のリーダーでもある)山本昌さんの“開幕戦は誰が投げるんだ?”という問いかけに、それぞれの登板予定日を答えていく流れになってしまって。

“もしかして憲次郎、開幕戦はお前か?”って笑いながら言われたときには、“まさか! 俺が投げるわけがないじゃないですか”と言って、ひとまずトイレに逃げ込み、会話の流れが止むまでじっと姿を隠していました」

▲山本昌投手に問い詰められたときは生きた心地がしなかったという

開幕戦前夜に喫茶店で打ち明けた相手

川崎の開幕投手への抜擢は、こののち8年間で4度のリーグ優勝を成し遂げた落合監督の、徹底した情報管理を語るうえで欠かせないエピソードになる。しかし、開幕投手に指名された川崎は、現場の混乱や不測の事態が起こることを防ぐために、ごく一部の人には登板予定を伝えていたという。

「じつは……“絶対に黙っておいてください”と強く念を押して、内野手のリーダーだった立浪(和義)さんと井端(弘和)、そして僕のトレーニングコーチには本当のことを伝えました。井端はとても驚いていましたね」

井端への激白は、開幕戦前日にあたる4月1日の夜、両者の自宅に近い喫茶店だった。

「近所に住んでいた井端に“ちょっと話がある”とだけ伝えて、喫茶店に呼び出しました。そして“じつは明日の開幕戦で先発を任されたんだけど……”と打ち明けると、井端は“マジですか…!”と言って、とにかく驚いた様子でしたね。内容が衝撃的すぎたのか、井端のほうが緊張していたように感じました」

のちに落合氏は、監督時代の印象に残った試合の一つとして、川崎が登板した2004年の開幕戦を挙げている。彼の心境はどんなものだったのだろうか。

「開幕戦は、チームにとっては長いペナントレースのたった1試合かもしれませんが、基本的にはチームの顔になる投手が任されるのが慣例です。必死にリハビリに励んできた3年間と、“もしかしたら開幕投手をきっかけに、またかつてのようなピッチングができるようになるかもしれない”と思いながら野球に取り組んだ2004年の数か月間は、湧き上がってくるモチベーションが全く違うことが自分でもわかりました」

やる気に満ちあふれた状態で2004年シーズンを迎えた川崎は、この年3試合に登板(※引退試合を含む)したが、かつてのような成績を残すことはできず、中日がリーグ優勝を決めたあとの10月2日、来季の契約を結ばない旨を通告された。

「監督室のドアを開けると、落合さんと森さんが座ってたんですが、なんとなく何を言われるかはわかっていました。“野球を続けるかどうかは、母ちゃん(妻)と相談して決めろよ”と言われて監督室を後にしました。

妻は僕が苦しんでいたのも知っていたので、引退する旨を伝えたら、“お疲れさまでした”と言ってくれました。その後、落合さんに正式に“引退します”と伝えると、“俺がチケットを用意するから、お世話になった知り合いを呼べるだけ呼べ”と言ってくださったんです。僕のために素晴らしい舞台を用意してくださった落合さんには、今でも感謝の思いしかありません」

川崎の引退試合は、話し合いの翌日にナゴヤドームで開催されたヤクルト戦だった。古巣とのゲームに先発した川崎は、本来ならば怪我で出場しない予定だった古田敦也、宮本慎也、岩村明憲の3選手から三振を奪ってマウンドを降りると、試合後には両軍の選手たちに胴上げされて、16年間の現役生活に幕を下ろした。

「残念ながら思うような結果を残せず、悔しい思いもたくさん経験してきましたけど、“最後まで一生懸命、頑張ってよかった”と心から思えた瞬間でした。あの引退試合がなかったら、ひっそりと引退して、そのまま忘れ去られてしまっていたかもしれない。落合さんがチームの力になれなかった僕のために、引退を演出してくださったことが、現在にもつながっていると思います」

野村監督の教え「奇跡を起こすための3要素」

現在は野球解説者として活躍する傍ら、故郷である大分県の魅力を発信し続けている川崎は、大分県佐伯市で釣りの魅力を紹介するテレビ番組『川崎漁業組合』(GAORA)の出演や、自身の名前『憲次郎』と名付けた焼酎や日本酒、さらにはチョコレートを制作するなど、地元の活性化に力を注いでいる。

「たまたま芋掘りに行ったときに、酒蔵の工場長と出会ったことがきっかけなんです。“自分の名前の芋焼酎を作ってみたい”と相談させてもらったところ、興味を持ってくださって。試しに『憲次郎』という焼酎を作ってみると、ありがたいことに全て完売したんですよ」

その後、手応えを掴んだ川崎は、日本酒『憲次郎』や、それを使った『憲次郎トリュフ』などを展開し、いずれも人気を博している。みんなが快く了承してくれたからこそ、全てが回り出したように思いますと、感謝の思いを語る川崎だが、自らも田植えをするなど、地元大分の素材にこだわった商品作りには強いこだわりがある。

「僕の生まれた大分県佐伯市(2005年に再編)には約6万人が住んでいますが、少子高齢化の影響で毎年1000人ずつ減っていて、やがて街自体がなくなってしまう可能性もあるんです。地元の人は“何もない場所だから……”と口々に言うんですけど、豊富な自然に囲まれて、新鮮な魚や野菜が味わえる環境が揃っていて、すごく贅沢な生活をしているようにも思える。僕が大分県の魅力や“田舎でしかできないことの素晴らしさ”を発信することで、少しでも地元を盛り上げていきたい思っているんです」

引退後もさまざまなジャンルの人たちと交流し、情報を発信し続けている川崎が、事あるごとに思い出すのが、常に向上心を忘れずに新しい挑戦を続けてきた野村監督の姿勢だという。

▲恩師の言葉を胸に秘めた川崎の足が止まることはない

「僕がヤクルトでプレーしていた頃、野村監督が『奇跡を起こすための要素』として、古いものにしがみつかない、知らない人と積極的に話す、何か新しいことに挑戦する。その3つが重要だと話をされていて、その言葉を胸に刻みながら日々過ごすことを心がけているんです。

年齢を重ねていくと、過去の実績にしがみついてしまいがちですが、野村監督は貪欲に新しいものを取り入れていくところがあった。僕自身、出会った頃の野村監督の年齢に近づきつつありますが、新しいものが次々と出てくる現代社会では、かつての野村監督のような姿勢が、より重要になってきているように感じるんです」

野球以外でも果敢な挑戦を続ける川崎の胸には、今は亡き恩師の教えが大切に刻み込まれている。

(取材:白鳥 純一)


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