狭いコートに2メートル超えの対戦相手、第4セットではMTO… 絶対絶望的な状況から錦織圭が見せた底力【全仏テニス】<SMASH>

リードされた状態から、ギアを入れ急激に追い上げる高揚感。

ドロップショットやライン上を狙ったロブなど、瀟洒なプレーが演出する華やかさ。

敗戦の淵に追い詰められた時の、絶望。

そして、絶対絶望的な状況から逆転する、カタルシス。

見る者を感情の乱高下に巻き込み、最後に迎える大団円――。錦織圭の、約2年9カ月ぶりのグランドスラムへの帰還とともに、あの“錦織劇場”もが帰ってきた。

テニス四大大会「全仏オープン」1回戦の、錦織圭対ガブリエル・ディアロ(カナダ/世界ランク166位)。

ゴリアテに知恵と勇気で立ち向かうダビデよろしく、錦織が大柄選手を技とスピードで翻弄するのは、既視感溢れた光景だ。

ただ変わらないものがあれば、変わるものもある。

一つにはランキングと、それに伴う試合コート。現350位、48位のプロテクトランキングでエントリーの錦織と、予選上がり選手のカードは、6番コートに組まれた。観客席は三方を囲むスタンドのみで、入り切れないファンがゲートの外に溢れる。

そしてそのコートの狭さは、プレーそのものにも影響した。
ディアロは203センチの長身だが、錦織曰く「デカさのわりには、(サービスの)スピードは出ない」。むしろ特徴的なのは、ファーストサービスからでもスピンをかけ、打点の高さを利しボールを高く弾ませてくることだ。

そのようなサービスを返すには、「本当だったらメッチャ下がって(錦織)」、落ちてきた所を叩きたいところ。だが6番コートの、ベースラインから後方フェンスまでの距離はアリーナコートよりはるかに狭い。「限界まで下がっても、ちょうど一番上の所にボールが来ちゃう」という状況だった。

相手の体格と実際に飛んでくるボールのギャップ、そしてコートサイズに戸惑い、思うようにリターンできなかったのが、立ちあがりに1-4とリードを許した要因の一つだろう。そして球質にも慣れ、攻略法も見いだした2-4の局面で、錦織が相手を捕らえた。

「もう前に行くしか……、前に行かざるを得なかった。その分、マイアミの時より、かなりリターンの調子が良かった」

下がるという選択肢が断たれたことで、前に出てリターンする策に、気持ちが定まる。特に相手のセカンドサービス時には、やや下がったポジションから、助走をつけボールに身体をぶつけるように飛び込み鋭く打ち返した。

第1セットは相手にセットポイントがありながらも、逆転で7-5で先取。

第2セットはタイブレークを制して奪い、セットカウント2-0と勝利に大きく肉薄した。
ただ……錦織が相手と試合に慣れると同時に、ネットの向こうでは、もう一つの事象が進行していた。22歳の相手もまた、本戦の雰囲気と緊張感に、身体を馴染ませていたのだ。昨年、大学を卒業してプロに転向し、これがグランドスラム(四大大会)本戦デビューとなる才能の原石は、第3~4セットでレベルを上げる。それは錦織曰く、「別人のよう」で、「トップ50くらいの強さに感じた」ほどだった。

「どうやったらポイントを取れるんだろうという錯覚に陥るくらい、何を打っても深く返してくるし、バックはダウン・ザ・ラインも混ぜてきた。相手のアンフォーストエラーもかなり減ってきたし、プラス攻撃的になってきて……」

第3セットと第4セットは、やや一方的な展開でディアロの手に。22歳が若さとエネルギーを迸らせる傍らで、錦織は主審にメディカルタイムアウト(以下MTO)を要請し、コート上でトレーナーのマッサージを受けた。日はとうに落ち、気温は急激に下がるなか、人々の関心は勝敗の行方以上に、錦織が最後まで試合を終えられるか否かに移行したようだった。
果たして、ファイナルセット最初のゲームを錦織がブレークされた時、その予感は一層濃く立ち込める。

ところが直後のゲームを錦織がブレークすると、途端に再び、鍔迫り合いの緊張感が戻ってきた。

結果的には、この第2ゲームのブレークバックが、この試合最後のターニングポイントになったかもしれない。完全に掌握したかに見える流れを逃したことに、相手が落胆したかのようにも見えた。

ただ実は、試合後にディアロが最も悔いたのは、そこではない。「第1セットと第2セットにセットポイントがあったのに、取り切れなかった」ことだ。

キャリア初のグランドスラム本戦で、初めて経験する5セットマッチ。対する錦織は、5セットマッチでの現役最高勝率を誇る。その記録をディアロが知っていたかはわからないが、34歳の元世界4位が、経験ではるかに自身を勝ることは、当然知っていただろう。

「5セット目では、相手が若干ミスしてくれた」と錦織は振り返るが、そのミスは、”錦織圭“というブランド力が誘発したものでもある。

4時間22分の死闘にピリオドを打ったのは、やはり、錦織のリターンゲーム。錦織が深くリターンを返すと、相手のショットは、サイドラインを逸れていく。ボールを追う錦織は「アウト」の声を聞き届けると、スピードを緩めながらもそのままコートサイドへと駆け寄り、熱狂的に立ち上がり叫ぶチームスタッフと、軽く拳でタッチした。
試合直後――。ファンがスマホを手にコートを後にする勝者を追うなか、錦織はトレーナーに先導され、選手ラウンジへの道を急ぐ。錦織が会見室に現れたのは、試合終了から、約2時間後。時計の針は、0時を超えていた。

死闘の余韻と深夜特有のテンションが会見室を満たすなか、当の錦織だけは一人、何事もなかったかのような平時の佇まいで、そこにいた。

疲労の色は当然ながらありながらも、何も飾らず取り繕わず、時にユーモアも交えて質問に応じるその姿もまた、既視感に満ちた光景だった。2014年全米オープンでミロシュ・ラオニッチ(カナダ/同196位)に勝った後の深夜の会見も、ケガからの復帰間もない18年の全仏オープン2回戦で、ブノア・ペール(フランス/同155位)にフルセットで勝った時も……。
会見での終盤。4セット目終了時にMTOを取った心境を問われると、錦織は少し目線を落として、朴訥な口調で言った。

「身体が痛いのを取るか、尿漏れを取るか悩んだんですけど、ワンチャン、60秒でトイレ行けばいいかなと思って。でもダッシュで行ったんですけど全然止まらなくて、それであんなギリギリになっちゃったんですけど……」

この良い意味での脱力感も含め、錦織圭が、帰ってきた。

現地取材・文●内田暁

© 日本スポーツ企画出版社