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「なんでみんな、ドロー(組合せ)のことを聞いてくるんだろう……」
テニス四大大会の全仏オープンの開幕を控え、彼女はそう、訝しく思ったという。
今大会での大坂なおみは、初戦の対戦相手以外は、ドローの情報を一切耳に入れないようにしていた。それ自体は、さほど難しくはなかったという。数日前に初めて歩けるようになった娘の急成長をつぶさに見ることも、周囲の喧騒とは無縁でいられた理由かもしれない。
ただ全仏オープン開幕前の会見では、記者たちが妙にドローを話題にしたがる。その様子から、恐らくは早い段階で、上位選手と当たるのだろうと予測がついた。
「イガ(・シフィオンテク)と当たるんだったりして!」
チームスタッフたちにジョーク交じりにそう言うと、みな黙りこくったという。それが彼女が、近い未来を予見した瞬間だった。
ドローを知ることを拒み、目の前の対戦相手のみに集中し挑んだ2年ぶりの全仏オープンで、彼女の1回戦は開幕日の5月26日、センターコートの第1試合に組まれた。
対戦相手のルチア・ブロンゼッティ(イタリア)は、昨年、ツアー初タイトルを手にするなど急成長中の25歳。それでも、今年1月の全豪オープン初戦で当たったカロリーヌ・ガルシア(フランス)と比べれば、今回は勝利が期待できる相手だったたろう。
「オーストラリアでは勝てなかったから、今回は絶対に勝ちたい」と思った大坂は、「とてもナーバスになってしまった」と後に明かした。それでも試合の立ち上がりは、「その緊張をうまくエネルギーに変えられた」という。結果、第1セットをわずか28分、6-1で奪取した。
ところが、掲示板に映るそのスコアを目にした時、彼女は「リラックスしすぎてしまった。それが良くなかった」と振り返る。
第2セットは4-6で相手の手に。第3セットは再び集中力を高めて4-0とリードを広げるも、ここでブレークを許すと、4ゲームを連続で失った。ここでも彼女を襲ったのは、「硬さ」。それでも最後は闘志で緊張をかき消し、ゲームカウント5-5からブレークして、辛くもゴールテープを切る。
「ほんとに、ローラーコースターみたいな試合だった」と、会見での彼女は、安堵と苦味を笑顔にブレンドさせた。
「勝利を考えすぎて、目の前の1ポイントずつに集中することを忘れてしまった」
それがもつれた理由であり、この試合から得た「教訓」だと彼女は言う。その「目の前のことに集中する」という課題は、ドローを見ない姿勢にも通底するのだろう。
大坂が、ドローを見ないようにした背景には、今年2月の敗戦の苦い教訓がある。全豪オープンから間を空けずにカタール・オープンに参戦した大坂は、初戦でガルシアにリベンジを果たし、大きな手応えを得て準々決勝に勝ち上がった。
だがここで、カロリーナ・プリスコワ(チェコ)に競り負ける。この試合後の大坂は、涙を浮かべるほどに悔いを隠さなかった。それは自分のパフォーマンスに満足できなかったから。
そしてその原因が、「この試合に勝てば、イガと試合できると考えすぎてしまった」ことにあると、知るからだ。
ここでいう「イガ」とはもちろん、イガ・シフィオンテク。大坂が「妊娠中にも多くの試合を見ていた」選手であり、「すごく対戦したい」と切望した現世界1位である。
それから、3カ月後――。
大坂は予感していた通り、全仏オープン2回戦で、シフィオンテクと対戦する。全仏のセンターコートは、世界1位が過去3度制している、女王の城。
次の対戦相手を考えることもなく、勝利を期待しすぎることもなく、今いる瞬間に全力を尽くすことを目指す大坂にとって、これ以上望めない舞台と役者が整った。
現地取材・文●内田暁