【2019年5月掲載】山崎稜インタビュー「オフェンスでもどんどん点を取れて、ディフェンスでは相手のエースを止められる選手が理想」

「日本生命 B.LEAGUE FINALS 2023-24」を制し、初優勝を手にした広島ドラゴンフライズ。今大会のチャンピオンシップMVPに輝いた山崎稜は、三遠ネオフェニックスとのクォーターファイナルから昨日のファイナルゲーム3までの8試合中7試合で2桁得点をマーク。平均13.9得点、2.6リバウンド、そして3P成功率は驚異の56.0%をマークし、文句なしのMVP選出となった。

そんな山崎のキャリアを振り返るインタビューを2019年7月号の『月刊バスケットボール』に掲載していた。ここでは当時のインタビューをリバイバルとして紹介する!

※取材は2019年5月、栃木ブレックス所属時

外国人選手のプレーに魅了されバスケットの道へ

──バスケットボールを始めたのはいつですか?

小学2年生の頃に始めました。両親がバスケットをしていたのもありますが、さいたまスーパーアリーナで開催された『スーパードリームゲーム2000』を見に行って、外国人選手のダンクなどのプレーが格好良いなと思ったのが始めたきっかけです。当時は全然選手のこととかは知らなかったし、外国人のプレーがすごかったということしか覚えていないです。

──実際に始めてみてバスケットのどこにハマりましたか?

やっぱりシュートじゃないですかね。子どもはみんなシュートを打ちたがりますし、僕もその一人だったと思います。シュートをたくさん打って喜んでいましたね。

──バスケットについてはお父さんにも教わりましたか?
そうですね。小さい頃はミニバスの練習とは別に家に帰ってから、夜に外でドリブルをついたりしていました。

──所属していたチームは強かったですか?
そんなに強くなかったですね。ミニバス時代は県大会には出たことがなかったですし、中学生に上がってからも県大会には行けず、地区大会で負けてしまいました。当時の埼玉は結構強かったんじゃないかと思います。ジュニアオールスターでも上位に入っていたと思います。ただ、みんな中学まで埼玉でプレーして高校に進学するときにうまい選手は県外に行くみたいな感じでした。

──中学時代の最高成績は?

僕の中学校は東部地区に属していたんですが、2〜3回戦で負けていました。それくらいだったと思います。なかなか上には行けなかったですね(笑)。

昌平高時代の山崎

昌平高で徐々に注目を集めるウインターカップはケガ明けで21得点!

──その後は昌平高に進学しました。

僕は県外の強い高校に行くという考えは全くなくて、埼玉の高校に行くとしか思っていませんでした。部活引退後は近所のクラブチームに行ってプレーしていました。そこで指導してくれた方が昌平高の畔川(秀雄)コーチと知り合いで、一度練習に行くことになりました。実はそのときは昌平高の存在すら知らなかったんですけどね(笑)。埼玉で強いチームがあるということだけを聞かされて、みんなうまいんだろうなと思いながら緊張して練習に行って、そこで声をかけてもらいました。中学最後の大会ではすぐに負けて引退したので、昌平高の練習に行ったのが多分、夏休みとかだったと思います。

──それまでは進路はどう考えていましたか?
地元の高校を受験しようかなと思っていました。あとは千葉県の電車で通える範囲でバスケットにもある程度、力を入れている学校はいくつか見学に行きました。強いところでやりたいという気持ちもありましたが、それも決め切れていなくて。自分がうまいなんて思っていなかったので、いろいろなところからうまい選手が集まってくる中でやるのはどうだろうと思う部分もありました。

──昌平高のレベルについてはどう感じましたか?
みんなうまかったですよ。当時の高校3年生の代が強くて、格好良かったです。憧れも少しありましたね。中学までは細かいところまでは教わらなかったんですが、昌平高に進んで、畔川コーチにたくさん教わって指導してもらいました。チーム的な部分やバスケットIQと呼ばれる部分について特に教わりましたね。個人スキルについては練習終わりに同学年の中で1対1をたくさんする中で身に付きました。

──高校3年時にウインターカップに出場しました。ケガ明けながら21得点しましたね。
国体の少し前に疲労骨折をしてしまって国体にも結局出られず、復帰したのはウインターカップの1〜2週間前でした。予選にも出場できなかったのでぶっつけ本番です。尽誠学園が相手で、橋本尚明(横浜)や当時1年生だった渡邊雄太(NBAメンフィス・グリズリーズ)がいました。

──国体のメンバーに選ばれたり、高校時代には少しずつ注目されるようになりました。ターニングポイントは?
僕たちの代になった最初の大会でめちゃくちゃ点を取った記憶があります。そこからですかね。注目というか、いろいろな人から見られるようになりました。県内の大会ではずっと勝っていたので、そこでも見てもらえていたと思います。最初の地区大会で得点王を取って、シュートが入る選手という見方をされました。スコアラー的な目線で見られるようになりましたね。

スラムダンク奨学金第4期生として渡米本場のバスケットを体感

──その後は『スラムダンク奨学金』を受けてアメリカのサウスケント高に留学しました。
最初は書類審査と自己PR、あと試合のDVDを1枚送りました。どれくらいの応募があったかは知りませんが、その中から何人かに絞られます。その後、5人程度になったところで実際にアメリカに行って、1週間ほどコーチの下でバスケットについていろいろ見てもらいました。ファンダメンタルの部分からウエイトの測定など、かなり本格的です。それらがひと通り終わった数日後に合否が出るというシステムです。

──申し込みは自分から行なったのですか?
高校のコーチのところにパンフレットが届いたようで、それを僕のところに持ってきて「こういうのがあるらしい」と勧めてくれました。僕も奨学金のこと自体は知っていました。月バスで1期生の並里成さん(琉球)が特集されているのを見ていたので。でも、まさか自分のところに来るとは思いませんでしたね。「どうせ受からないだろうな」とダメ元で受けたんですが、受かりました(笑)。

──留学となると英語を勉強する必要などもありますが、学力面は審査の対象には含まれないのですか?
テストのようなものはなかったのですが、アメリカで何日か生活する中で、実際に高校の授業に参加する機会はありました。全く分からなかったですね。語学力の審査などはなく、バスケットのみでした。

──アメリカでの生活はどうでしたか?
最初は英語ができなかったので大変でしたが、徐々に慣れてきて楽しめるようになってきました。4月に渡米して6月になるとすぐに夏休みに入ります。プレップスクールは1年制なのですが、その2か月間だけ3期生の選手といる期間があって、そこで日常生活やシーズン開幕からの流れのようなものを聞きました。夏休みの期間中は学校が閉まってしまうので、語学センターに通っていました。9月に学校が始まる頃には最初に比べればかなり英語が聞き取れるようになっていましたね。英語しか飛び交わない環境で過ごしていれば、耳が勝手に慣れていきます。

──バスケットのシーズンは9〜10月スタートですよね?

そうですね。9月から徐々に練習をしていき、10月頃にシーズンが始まります。レベルは高かったですね。NBA選手を輩出している学校との対戦もありました。僕はどこの学校が強いとかはあまり知らなかったのですが、どこの誰が強豪大学からオファーされているというような話は耳にしましたね。試合の最中は全員外国人という感じだったので、誰が誰か分からなかったです(笑)。

──対戦相手やチームメイトで、後にNBAでプレーした選手はいましたか?
僕の1つ上の代にモーリス・ハークレス(元ポートランド・トレイルブレイザーズほか)がいました。一緒にワークアウトをしてもらったこともあります。同学年だとNBAにはいないと思いますが、テキサス・レジェンズで富樫勇樹とチームメイトだったリッキー・レド(現バーレーンリーグ)がいますね。すごくうまい選手でした。他校の選手は…。当時は「でけーなー」と思っていた程度です(笑)。

──日本との違いを感じたところはどこですか?
最初にびっくりしたのは、みんなお菓子を食べながら授業を受けていたことですね。「え?」と思いました。タブレットを教科書代わりに授業を受けていたのですが、みんな先生に見えないようにうまく隠してゲームをしたり。いろいろと自由でしたね。僕は勉強もバスケットも何とかやっていました(笑)。

──その後はタコマコミュニティーカレッジに進学しました。
進路を決める際にTOEFLとSATという大学進学のためのテストが2つあります。その点数があまり伸びず、学力的にディビジョンⅡの大学でギリギリ行けるかどうかくらいだったんです。なかなか進路が決まらない中で一旦帰国したのですが、その間もサウスケントのコーチやスタッフと連絡を取り合っていて、スタッフの方から短大があると提案されました。そこがタコマコミュニティーカレッジなのですが、バスケットにも力を入れていて強い学校でした。学力的にも問題がなさそうだったので、そこに決めました。

──進学後の印象は?
学業面では英語にも抵抗がなくなっていましたし、そのほかの授業も付いていけると感じていました。苦ではなかったですね。バスケットについては、また新しいチームになって人見知りな部分が少し出てしまい、最初のうちはあまりなじむことができませんでした。ただ、時間とともにそれも少なくなってきて、試合にも少しずつ出られるようになりました。それ以降は楽しくやっていましたね。

──留学してからのコート上での役割は何でしたか?
ガードはほとんどやっていません。サウスケント時代はコーチが僕のシュート力を買ってくれて、シューターとしてコートに立っていました。あとはディフェンスを頑張ってこい、と。3&Dのような役割でしたね。大学でも同じようなプレースタイルでやっていました。

富山時代。キャリアの始まりはbjリーグだった

卒業を待たずに帰国トライアウトを経てbjリーグへ

──その後、短大の卒業を待たずに帰国し、bjリーグでプロになりました。その理由を教えてください。 6月にbjリーグの合同トライアウトがあることを知りました。僕としては短大にもう1年いるか、こういったトライアウトを受けるかは決めていなくて、ちょうど学校も終わる頃だったのでトライアウトを受けてみようと思ったんです。最初はそこまで深く考えずに受けていたのですが、だんだんプロの道に進もうかなと考えるようになりました。その後、チームごとのトライアウトを受けていたところ、埼玉ブロンコスからお話をいただきました。どこかに引っ掛かればそこに行こうと思っていたので、プロになることを決めました。

──最初は練習生からのスタートでした。プロなって感じたことは何ですか?
(外国籍選手の)高さの面に関してはアメリカで慣れていたので、問題はなかったです。プロは学生のバスケットと違ってチームプレーを徹底するんだなという印象でした。アメリカは1対1からゲームを作っていくという感じでしたが、プロではフォーメーションが基本です。プロの世界はこういう感じなのかと思いました。

──苦労したことは何でしたか?
埼玉では練習生からのスタートだったので給料もなく、アルバイトをしていました。朝ウエイトトレーニングをして、それからアルバイトに行って、夜の練習に参加するという生活でした。当時は実家にいたのですが距離もなかなか遠くて、電車で片道1時間以上かかるようなハードな生活でした。でも、若手はこんな感じでスタートするのかなと思っていましたけどね(笑)。

──bjリーグでは埼玉、奈良、富山に在籍し、富山では2016年にbjリーグとして最後のファイナルを経験していますね。
有明コロシアムは高さがあるというか、声や音が響くというか。応援もすごいので、それを聞いたときは鳥肌が立ちましたね。最後のシーズンに良い舞台に立てたなと。アメリカでもあの規模の試合はディビジョン1でないと味わえないかもしれませんね。すごかったです。良い経験ができました。

栃木への移籍を決断理想の選手像を追い求める

──その年の秋にBリーグが開幕し、2シーズン目に栃木ブレックス(元宇都宮)に移籍しました。
声をかけていただきました。栃木が強いということも分かっていましたし、環境面を含め、ほぼ即決でした。前年のチャンピオンですし、周りにはすごい選手しかいないというのは覚悟して来ました。自分がこのチームで何ができるのかを考えましたし、そのレベルに追い付かなくてはいけない、人一倍練習しなければということは思っていました。同じレベルに早く立たなきゃという気持ちがありました。

──これまでのバスケット人生の中で挫折などの経験はありましたか?
中学生のときに少し嫌になってしまった時期はありましたが、それ以降はあまりないですね。少しそれますが、アメリカに行って試合に出られない期間に、身体能力の高い選手たちの中で何なら勝負できるかというのは考えなくてはならなかったです。そこでやっぱりシュート。それが生きる道なのかなと思いましたね。そのために打ち込みもしました。その成果が出て、試合に出られて、コーチも信頼してくれて。アピールというか、これまでも自分で何かを示していって、プレータイムを勝ち取っていきました。上には上がいるということを思い知らされたので(笑)。いかに自分を出していって、自分を示していくか。そうしていかなければプレータイムはもらえない。これはアメリカに行ったから分かったことです。

──栃木には田臥勇太選手をはじめ、優れた選手がたくさんいます。彼らから学んだことは何ですか?
このチームのすごいところは一人一人のディフェンスをする気持ちです。試合中も常にその意識が高いです。それは田臥さんやジェフ(・ギブス)、(竹内)公輔さんたちのようなベテランの選手がやっているから、よりすごいと感じています。ベテランの彼らがそういった姿勢なのに、僕らのような若手は一瞬も気を抜いてはいけない。彼らがやっているんだからやらなければ、という気持ちにさせてくれます。

──2019年1月26日の試合では川崎ブレイブサンダースを57点に抑える圧巻のディフェンス力を見せました。そういった部分にもお話にあった意識は出ていますね。
そうですね。逆に強い相手だからこそ抑えてやろう、失点を少なくしようという意識になります。今年は得点もかなり多いですが、栃木は大量得点で勝つチームではなく、ディフェンスでいかに相手を抑えて勝つかというチームだと思っています。1月の川崎戦のように強い相手に対しても、そのディフェンスができるのはすばらしいことです。

──試合中に意識していることは何ですか?
安齋(竜三)ヘッドコーチ(現越谷HC)から言われているのは、プレッシャーをかけ続けて、常に足を動かすことです。そうすることでチームのリズムも生まれますし、そういったプレーができているときは、僕自身の調子も徐々に上がっていきます。チームのリズムが良いときにこれを続けていけば、より流れも良くなりますし、逆に全然得点ができていないときでもプレッシャーをかけ続けて、少しずつでも流れを作っていければなと考えています。それが一番の役割だと思っています。

──レギュラーシーズン(以下RS)は57試合に出場し、プレータイムも倍増しました。このRSは山崎選手にとって、どのような期間でしたか?
プレータイムを伸ばせたことで、いろいろな経験もできて良かったと思います。ただ、スタッツの面で見ると何一つ納得できないです。オフェンス面で結果を残せなかったとしても、ディフェンスをやり続けなければならないと先ほど話しましたが、それが60試合全てでできたのかなと考えてしまう部分はあります。そこを売りにしていこうとしている中で、ディフェンスがイマイチだったり、自分のところで失点してしまったり、相手に良いプレーをさせてしまったところが多々ありました。それが悔しいというか、納得がいかないというか…。もどかしさは残りましたね。

──100点満点で評価すると?
30点か40点くらいですかね。全然ダメです。自分の中で手応えがある試合というのがあまりなかったなと思います。もっとできたのにというふうに思った試合がほとんどで。RSが終わって振り返っても意味がないですが、そうなってしまったなと。

──では最後に。これから先、どのような選手・人間になっていきたいですか?
今はディフェンスを意識してやっていますが、オフェンスでもどんどん点を取れて、ディフェンスでは相手のエースを止められて、といった選手が理想です。栃木でいう遠藤祐亮さんのような。僕の目指す選手像として、遠藤さんが当てはまるなと思っています。いわゆる2ウェイプレーヤー(オフェンス、ディフェンス共に活躍できる選手のこと)と呼ばれる選手ですね。そこが今目指しているところです。

人としてはどうですかね? どのくらいまでバスケットをするかにもよりますが、セカンドキャリアは全く考えていないです。…理想としては、公務員になって安定を求めたいです。これまではチャレンジというか、そういうことが多かったので、その反動ですね(笑)。穏やかな人生を送っていきたいです。

© 日本文化出版株式会社