宗教教育と言語について(上)   イスラム圏の教育事情 その4

林信吾(作家・ジャーナリスト

林信吾の「西方見聞録

【まとめ】

・イランは、1979年に革命によって王制は打倒され、国号は「イスラム共和国」、国名はイランとすると決定した

・イランと言えばロシア(=プーチン政権)の数少ない同盟国。

・中東諸国のイスラム過激派を支援して、米国やイスラエルと激しく対立している。

日本では長きにわたって、

「預言者ムハンマドはコーランを翻訳することを禁じた」

と言い伝えられてきた。したがって、イスラムの宗教行事ではアラビア語だけが用いられている、と。

だが、考えてみれば、イスラムはアラビア語圏の地域宗教ではなく、アジアからアフリカにまで広まった世界宗教であり、信者の母国語も多岐にわたっている。そもそも岩波文庫に『コーラン』の日本語訳(井筒俊彦・訳。上中下3巻)があるのは一体どういうことか。

実はこれ、翻訳と一口に言っても、その意味するところは様々である、という話なのだ。

イスラムの歴史は、西暦610年、預言者ムハンマドが神の言葉を聞いたことから始まる。ちなみに、イスラムという単語自体が「教義」といったほどの意味なので、私は「イスラム教」と表記しない(二重形容になるので)。コーランも日本では「啓典の書」などと訳されたりもするが、要は「読むべき本」といった意味であるらしい。

日本ではまた「クアラーン」「クルアーン」といった表記も広まりつつあるようだが、本連載では伝統的な表記法に倣って「コーラン」で統一させていただく。

一方、預言者ムハンマドについては、日本では長きにわたって「モハメット」が定着していたが、こちらはより原音に近い表記を採用した。

表記揺れではないか、と言われても仕方ないが、もともと外国の地名や人名をカタカナ表記するに際しては、書き手の判断と責任において個別具体的な基準を設定する他はない。日本語の便利なところでもあり、厄介なところでもある。

話を戻して、コーランは預言者ムハンマドが神の啓示を受け、その言葉を書きとどめた一冊であるから、翻訳という概念自体、本来は成立しない。ただ、布教の過程で、コーランに書かれているのはこういうことです、という「解説書」「副読本」のようなものが、各国語で出版されてきた。これが日本では、翻訳と銘打って売られてきただけの話なのだ。

だからと言って、アラビア語圏以外ではもっぱら「翻訳」に頼っているのかと言えば、それも少し違うので、たとえば日本ムスリム協会では、礼拝の際にコーランの一節を唱える際はアラビア語だが、説法は全て日本語、という具合になっていると聞く。

興味深いのはイランの例で、この国はイスラム共和国と称しているが、公用語はペルシャ語である。地域によってトルコ語やクルド語も話されているが、これは少数民族の言語と位置づけられている。

ペルシャ語とアラビア語とは、文字がほとんど同一である他に、発音がよく似た単語も多いのだが、文法などはかなり違うので、会話は成立しないそうだ。私はどちらも解さないので、これは専門家の受け売りであることを明記しておくが笑。

そのようなイランであったが、1979年のイスラム革命以降、国策として宗教教育に重きを置くようになったことから、小学校から標準アラビア語を教え込まれるようになった。

標準アラビア語については、シリーズ第1回でも少し触れたが、要は「コーランを正しく読むための言語」として文法や発音が統一されてきたものである。

わが国に置き換えて考えたならば、小学校のカリキュラムに突如として漢文が追加されたようなものであるから、教えられる側としては、なかなか大変な話だろう。漏れ聞くところによると、陰で不平を言う児童生徒も少なからずいるらしいが、これもこれで無理もない。かの国で公然と宗教教育に対する不平など口にしようものなら、後でどのような災厄が降りかかるか、知れたものではない。

個人的な思い出だが、ロンドンで暮らしていた頃、留学生や移民としてやってきた複数のイラン人と知り合った。その中の一人から、

「国内では誰もイランと呼ばないんだ。もっぱらペルシャだよ」

聞かされたことを覚えている。私は即座に、

「我々と一緒か。国内ではJapanではなくNipponとしか呼ばないからね」

と答え、それは面白い、と返された。

しかし、その後色々と読んでみると、歴史的にはかの国の人たちはイラン(アーリア人の国という意味)という国名を好み、ペルシャというのは西洋風の呼び方であったようだ。

古代において、かの地における政治経済の中心であったパールサという地名が、ギリシャ風にペルスィスと訛り、さらにローマ風にペルシャとなったとか。

ネーデルラントという国にあって、歴史的に政治経済の中心であったのがホラント州で、そのポルトガル語訛りが日本に伝わった結果、国全体を「オランダ」と呼ぶようになった。その経緯とよく似ている。

Japanにしても、もともとは日本を中国語風に読むとジーペンあるいはリーベンで、これがイスラム商人を介した交易を通じてヨーロッパ人の知るところとなり、たとえばイタリア人の探検家マルコ・ポーロが「黄金の国ジパング」の話を広めたという経緯がある。こちらは、ご存じの方も多いだろう。

つまり私がロンドンで聞いた、イラン青年の話は理解が逆だったと見ることもできるのだが、このあたりの解釈は専門の研究者の間でも意見が分かれ、1959年には、当時の国家元首シャー・レザー・パフラヴィーが、

「呼称としてのイランとペルシャは、どちらでもよい」

とする勅令を、わざわざ発していることも分かった。

その後1979年に、前述の革命によって王制は打倒され、国号に「イスラム共和国」と関すると同時に、国名はイランとする、との決定が下されたのである。

私がくだんのイラン人青年と知り合ったのは1980年代半ばのことであったから、今にして思えば、イラン・イスラム共和国という呼称について、肯定的に受け止めていなかったのかも知れない。

ここ数年、イランと言えばロシア(=プーチン政権)の数少ない同盟国であり、中東諸国のイスラム過激派を支援して、米国やイスラエルと激しく対立し、よくも悪くも世界的に注目の的であった。

とりわけ今月19日には、エブラヒム・ライシ大統領らが乗ったヘリコプターが墜落し、大統領と外相を含む搭乗者7人が死亡するという事態も起き、日本のメディアにおいても、中東の国としてはイスラエル、パレスチナと並んで名前が頻出する国と言って過言ではない。

しかし、その割には、非アラビア語圏における宗教教育の実態とか、知らないことがあまりにも多かったのだと、いささか反省させられた。

次回は『聖書』や仏典との比較から、この問題をもう一度掘り下げてみたい。

【取材協力】

若林啓史(わかばやし・ひろふみ)。早稲田大学地域・地域間研究機構招聘研究員。京都大学博士(地域研究)。

1963年北九州市生まれ。1986年東京大学法学部卒業・外務省入省。

アラビア語を研修し、本省及び中東各国の日本大使館で勤務。2016年~2021年、東北大学教授・同客員教授。2023年より現職。

著書に『中東近現代史』(知泉書館2021)、『イスラーム世界研究マニュアル』(名古屋大学出版会)など。『世界民族問題辞典』(平凡社)『岩波イスラーム辞典』(岩波書店)の項目も執筆。

  • 朝日カルチャーセンター新宿教室(オンライン配信もあり)で7~12月、博士の講座があります。講座名『紛争が紛争を生む中東』全6回。5/17より受付中。詳細および料金等は、同センターまでお問い合わせください。

トップ写真:ホメイニ氏が15年にわたるパリ亡命後、イランに帰還した時の様子(1979年2月1日)

出典:Bettmann/getty images

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