『ユニコーン・ウォーズ』の主人公はなぜテディベアなのか “移行対象”としてのぬいぐるみ

リアルサウンド映画部の編集スタッフが週替りでお届けする「週末映画館でこれ観よう!」。毎週末にオススメ映画・特集上映をご紹介。今週は家に巨大なピングーのぬいぐるみがある花沢が『ユニコーン・ウォーズ』をプッシュします。

『ユニコーン・ウォーズ』

30歳手前になって気づいたことは、大人になってもぬいぐるみを持っている人は意外と多いということだ。先日、テレビにアナウンサーの神田愛花さんが出ていて、「毎晩ぬいぐるみにその日あったことを喋っているんです」と話していた。スタジオの男性芸人は爆笑し、翌日のネットニュースには、「神田愛花の“変わりすぎている日常”に一同ドン引き」という見出しが踊っていた。

そのタイトルに妙に既視感があって調べてみたら、2018年のトーク番組で同じくアナウンサーの寺田ちひろさんが披露した「持っているすべてのぬいぐるみに名前をつけている」という話が、「『30歳でそれはヤバい』女子アナの趣味を番組が批判」という記事になっていた。

「大人になってもぬいぐるみを持っている女はイタい」という言説は、テレビに限らずよく耳にするものだ。その一方で、同年代のアラサーの友人たちはディズニーランドでも、旅先でも、ゲームセンターのUFOキャッチャーでも、これぞ!というぬいぐるみがあれば迷わず買う。その買いっぷりは見ていて気持ちがいい。

今回紹介する『ユニコーン・ウォーズ』は、テディベアを主人公にしたスペインのアニメーション映画。といっても、内容はまったく子ども向けではなく、日本でこそPG-12に収まっているものの、カナダや韓国、ドイツではR-18指定になっているほど残酷な描写が多い。

本作は「『地獄の黙示録』をテディベアとユニコーンでやったらどうなるだろう?」というコンセプトをもとに作られたそうで、パステルカラーのクマちゃんが戦地であんな目やこんな目に遭うさまをひたすらお届けされる。その描写は嫌になるくらいリアルで、宗教、ドラッグ、ファシズム、ホモソーシャルといった要素がそこかしこにちりばめられている。

とはいえ、本作の主人公をテディベアにしたことは、何も露悪的なブラックジョークを狙ったものではない。そこには、冒頭で紹介したような「大人がぬいぐるみを持つのはイタい」という言説と切っても切り離せない意図がある。

『人形メディア学講義』(河出書房新社)という本を書いた菊地浩平さんという研究者がいる。菊地さんは、ぬいぐるみをはじめとする人形と人間の関わり方が専門の“人形文化研究者”だ。

その菊地さんが著書の中で紹介していた、精神分析家ドナルド・ウィニコットの「移行対象と移行現象」という論文がある。ウィニコットによると、子どもがぬいぐるみや毛布などに依存するのは、成長のために必要なことだと言う。泣くだけで母親が願いを叶えてくれていた乳児期から、「母親は自分の一部ではない」ということを理解していくために、主観と客観という2つの世界を橋渡ししてくれる存在が必要になる。ウィニコットが「移行対象」と呼ぶその存在こそ、ぬいぐるみや毛布なのだ。

菊地さんは、ウィニコットが唱えた「ぬいぐるみは成長の過程で必要なもの」という考え方がいつからか、「ぬいぐるみは“卒業”するもの」という認識に変化してしまったのではないかと考察している。だが、ウィニコットはむしろ「移行対象」は子どもだけのものではなく、一生を通じて人間の健全な精神を支えるものと位置づけているのだ。

本作の登場人物がテディベアの形で登場するのは、ぬいぐるみという存在が「幼さ」や「弱さ」の象徴とされ、いつかはそれを捨てるべきだと考えられてきたことと関係している。

それを象徴するように、主人公のアスリンは、幼い頃は内気で泣き虫なテディベアだったのが、両親の離婚や軍への入隊を経て、どんどんマチズモに染まり、優しい兄のゴルディを憎むようになっていく。自らも「移行対象」のテディベアでありながら、弱さや繊細さを隠そうとしないゴルディを否定することで、うわべだけの“成長”を遂げようとするのだ。

『くまのプーさん』しかり、『ひょっこりひょうたん島』しかり、真に戦争の愚かしさを知っている作家ほど、その思いをぬいぐるみや人形に託す。それは本作も同じだ。『ユニコーン・ウォーズ』は、現実世界をただアニメーションに置き換えているのではなく、テディベアを通して人間の本質を描き出している。

「大人がぬいぐるみを持つなんて」と嘲笑する、主観と客観の切り分けができていない人にこそこの映画を観てほしい。
(文=花沢香里奈)

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