宗教教育と言語について(下)イスラム圏の教育事情 その5

林信吾(作家・ジャーナリスト

林信吾の「西方見聞録

【まとめ】

・キリスト生誕のパレスチナはローマ帝国の領域で、公用語はギリシャ語、ラテン語は上流階級のものだった。

・聖書はイエスの弟子たちが師の言動を書き記したもので、ラテン語をはじめ様々な言語に翻訳された。

・キリスト教は異教の祝祭なども取り入れ、世界最大の宗教となった。

キリスト教の『新訳聖書』(以下、聖書)はもともと、ギリシャ語で書かれたものである。

イエスが生まれた当時のパレスチナはローマ帝国の版図であり、ユダヤの民は被支配民族であった。しかしながら、事実上の公用語はギリシャ語だったのである。

事実上とは妙な表現だが、紀元前4世紀にマケドニア王国のアレクサンドロス3世(日本では一般に〈アレキサンダー大王〉として知られる)が、エジプト、ペルシャを征服し、インド亜大陸にまで遠征したという歴史があって、その版図ではギリシャ語が話されるようになっていたのが事実だ。

カエサルとクレオパトラのロマンスは有名だが、二人が何語で愛を囁きあった(単なる政略だろうが、とのツッコミはお断りします笑)のかと言えば、まず間違いなくギリシャ語であったと考えられる。

ただ、そのギリシャは紀元前3世紀にローマの版図に組み込まれたため、法律などはすべてラテン語で記された。実際にラテン語は「上位の公用語」と位置づけられていたらしい。

日常語としてのラテン語が定着していったのは、イタリア半島から遠征した軍団が都市を築いて直接的に支配した、地中海世界の西半分だ。現代イタリア語の他、フランス語やスペイン語などが、いずれラテン語から派生した「ロマンス諸語」に分類されていることはよく知られている。

ローマの版図はまた、現在のイングランド=ブリテン島南部にまで及んだが、ここでは日常語としてのラテン語は定着しなかったものの、地名にその跡をとどめている。

マンチェスター、ドーチェスターなどで、この「なんとかチェスター」という地名は、ローマ軍団の駐屯地が置かれた場所であったことを示している。

カストラルの訛りだと思われる、と記された資料もあるが、これとてラテン語の「城塞」あるいは「要塞化された小都市」のことで、キャッスルの語源であるから、どちらが正しいにせよ、意味的に大きな違いはない。

また、ローマの支配下にあっても、日常語としてのラテン語は定着しなかったと述べたが、それは庶民レベルの話で、貴族など上流階級は基礎的な教養としてラテン語を学ぶものとされ、この伝統は現在も継承されている。

ロンドンで聞きかじった話であることを明記しておくが、英国国教会の高位の聖職者で、ラテン語が堪能な人はローマ・カトリックと比べてもむしろ多いそうだ。

さらに言えば、現国王チャールズ3世の出自であるウィンザー家だが、そのルーツはドイツのハノーファー家である。1714年、ハノーファー選帝侯ゲオルクと言う人が名前をジョージと英語風に改め、ジョージ1世として即位したことに始まる。

先王であったアン女王が、子供ができないまま逝去したことに伴い、又従兄弟に当たる彼が担ぎ出された。このあたりの経緯は拙著『女王とプリンセスの英国王室史』(ベスト新書・電子版アドレナライズ)に詳しいので、ご用途お急ぎでなければご参照願いたい。

ここではラテン語について少しだけ述べておくが、このジョージ1世という人、実は英語が全然出来なかった。貴族らとの会話はもっぱらラテン語であったが、一方がゲルマン訛り、他方がイングランド訛りであったため、お互いに相当苦労したと伝えられる。

……話がだいぶ回り道をしてしまったが、ギリシャ語で書かれた聖書は、ほどなくラテン語を皮切りに、様々な言語に翻訳されていった。

前回コーランについて、預言者ムハンマドが神の啓示を受け、それを書きとどめたもので、その言葉がアラビア語であったことから、翻訳という概念がそもそも成立しないのだと述べた。

この点、キリスト教の聖書は、イエスの弟子たちが師の言動や奇跡を起こしたことなどを書きとどめたものなので、布教のために多言語に翻訳されることには、さして抵抗もなかったのである。

とは言え、ローマにおいてキリスト教を広めてゆこうとした、初期の伝道者たちの苦難は、並大抵のものではなく、多くの殉教者を出した。今や観光名所であるローマのコロッセオ(円形競技場)で、素手丸腰のキリスト教徒をライオンと戦わせる見世物が行われたりもしたほどだ。

しかし、380年に時のテオドシウス帝がキリスト教をローマ帝国の国教と定め、392年には他の宗教を禁止した。ちなみに、イスラムの登場に先駆けること約200年の話である。

その後、キリスト教は世界最大の信者数を誇るまでになるわけだが、これについては布教のために役立つなら、と聖書の翻訳を奨励した他、異教の祝祭などもどんどん採り入れていった。

たとえばクリスマスだが、新旧いずれの聖書にも、イエスが12月24日に生まれたなどとは書かれていない。

ローマを中心とする地中海世界では、古来「過越の祭」と称される年末のイベントがあった。1年の労働とその成果に感謝し、翌年の平安と豊作を祈るものだが、飲めや歌えのお祭り、まさしく「楽しいクリスマス」の原型となるイベントであった。

読者ご賢察の通り、初期のキリスト教団は、これを「イエスの生誕を祝う祭」であると置き換え、布教に役立てていったのである。

では、イエスの本当の誕生日はいつか、という疑問がわくが、宗教学者の間では5月説が有力であると聞く。12月のパレスチナは雨季なので、東方の博士が星を見てキリスト(救世主)の誕生を知ったという聖書の記述とは矛盾する、と聞かされたこともある。

実はこのあたりの議論は、現在に至るも決着がついていないテーマが多く、そのように聖書の記述をアカデミックに考察する人たちは、やはりギリシャ語を学ぶのだという。

どちらも中東で生まれた宗教でありながら、宗教と言語の関係性という観点から見たならば、大きく異なっていることがよく分かる。

本来そこに優劣などはないはずだが、自らの信仰だけが唯一無二のものだと考える人が昔も今も多く、その結果として、宗教がからんだ戦争が今も絶えない。

幾度も述べてきたことながら、教会にも行かずにクリスマスを祝い、数日後には神社に初詣に行って、信仰上の葛藤などなにひとつ感じないのがわが国である。

日本人に生まれてよかった、と心底思うのはこういう時であるのは、私だけだろうか。

【取材協力】

若林啓史(わかばやし・ひろふみ)。早稲田大学地域・地域間研究機構招聘研究員。京都大学博士(地域研究)。

1963年北九州市生まれ。1986年東京大学法学部卒業・外務省入省。

アラビア語を研修し、本省及び中東各国の日本大使館で勤務。2016年~2021年、東北大学教授・同客員教授。2023年より現職。

著書に『中東近現代史』(知泉書館2021)、『イスラーム世界研究マニュアル』(名古屋大学出版会)など。『世界民族問題辞典』(平凡社)『岩波イスラーム辞典』(岩波書店)の項目も執筆。

※朝日カルチャーセンター新宿教室(オンライン配信もあり)で7~12月、博士の講座があります。講座名『紛争が紛争を生む中東』全6回。5/17より受付中。詳細および料金等は、同センターまでお問い合わせください。

トップ写真:クリスマスの夜(イメージ)出典:LSOphoto/ Getty Images Plus

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