超人気料理人・脇屋友詩 中華料理の革命児と呼ばれる天才の運命が決まったのは…“中学生で初めて食べた中華料理店内での父親のまさかの行動だった?

中華料理界の革命児とも呼ばれる、人気料理人・脇屋友詞が6月1日放送の『Google Pixel presents ANOTHER SKY (アナザースカイ)』に出演。生まれ故郷である北海道札幌市で当時住んでいたエリアをたずね、自身の原点を語った。そこで語られた料理人となるきっかけを作った、父親のある行動とは!?

幼かった脇屋が遊んでいたのは、自宅から小学校への通学路でもあった北大(北海道大学)の中。今回脇屋はそこを訪れ、Google Pixelを手に大学の建物をパチリ。当時のことを赤裸々に振り返った。

札幌市ではさまざまな場所を撮影していた

そのころは「常にお腹空いてて。皆お腹空いてましたね」と言い、当時は柵がなかったため校内に実っていたリンゴやナシを友人らと取って、みんなで食べていたこともあったよう。

そんな彼の楽しみは、毎日の夕食。家族そろってご飯を食べ、父親は酒を飲むのだが、料理上手だったという母親が作る晩酌のアテが魅力的に見えたそう。「例えばおいしい魚のダシがあって、そこに肝とか入っているやつを(父親に)“食べてみたいな、食べさせてよ”と言ったら、“子どもはハゲるからダメだ”って言ってました」と笑い、厳しかった父親とのやりとりを再現。実際に手を付けることはなかったそうだが、「いいな、食べてみたいな」という未知なる味へ思いをはせ、食にどん欲になっていく。

母親が病気になったときのこと。父親が作ったチャーハンが全くおいしくなかったため、少年だった脇屋が「作らせてくれ」と懇願し台所に立つことに。すると自分で作った方がおいしく、さらにその味を褒められたことで、その後は工夫をしながら作るようになり腕も上達。その様子を見て、易学者だった父親は思うところがあったよう。

そして中学2年の夏休み、父の仕事に帯同して家族全員で東京へ。そこでは思いもよらぬ出来事が起こる。

このときのことを振り返り、「赤坂の『山王飯店』というところで初めて中国料理を食べたんです。そこで、そこの経営者に(父親が)“ウチの息子を中学を卒業して料理人にしたいけど預かってくれ”ってことを、ご飯食べている最中に話してたんです」と、料理人への道は父親の独断で決まったと明かした。

本人はそんなふうになるとは思っていなかったが、その後北海道から東京に引っ越し、中学も転校。進路を決める際には父親のなかでは高校への進学でなく、料理人になることが決定事項になっており、脇屋本人は「え!?」「意味わかんない」という思いが。

つまり、強制で料理人になることが決まったのだそうだ。

これに対して「“口減らし”だなっていうかね。1人でもそういう風に働きに行かせて、そうすると食費が助かるとか。すごいでしょ。もうひどい親だなって僕は思いましたけどね。正直ね」と率直に語り、母親は泣いていたと言う。

母親の魚の煮つけを思い出し、北海道産ハタハタの煮つけを作る場面も

15歳で料理人の道へ飛び込まざるを得なかった脇屋。右も左もわからない状態で、毎日鍋洗いと材料運びに明け暮れた。

しかし、この下積み時代に努力を重ね、いくつかの店で修業を積んだことで、27歳で立川リーセントパークホテル『楼蘭』の料理長に。そして現在は2023年12月に『Ginza 脇屋』をグランドオープンしたほか、赤坂に『Wakiya一笑美茶樓』『Wakiya迎賓茶樓』『Turandot臥龍居』と話題の中華レストラン3店舗を展開するほどの、人気料理人となった。

現在は北海道の食材の発掘や広報をする食のサポーターとしても活動している。

キャリアが50年を超え、料理上手だった母親、豊富な北海道の海の幸、そして進路を決めた父親が原点だと振り返った脇屋。

改めて両親には感謝だと言い、今では父親に対して抱いていたわだかまりも溶け、若くして自分の店を持った際は、料理をふるまったこともあったと明かした。

その際は「すごい満面の笑顔で料理を食べて、紹興酒をたらふく飲み、酔っぱらっている親父でした」と語った。

写真提供:(C)日テレ

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