マララさんはなぜ撃たれたか(下) イスラム圏の教育事情・最終回

林信吾(作家・ジャーナリスト

林信吾の「西方見聞録

まとめ】

・ユネスコ等は、アフガニスタンの女子教育問題が徐々に改善されていると認めている。

・同問題の要因は長期にわたった戦争による国土の荒廃と貧困であり、アフガニスタンだけの問題ではない。

2018年時点で同国の学校に通えない子供のうち4割を男子が占め、男子の教育問題も存在する。

「アフガニスタンのタリバン政権は、女子が教育を受けることを認めていない」

読者の中にも、マスメディアの報道を鵜呑みにした結果、上記のように思い込んでいる方はおられないだろうか。

前回、タリバン政権が中等教育を再建するに際して、

「男子生徒と男性教員だけが学校に戻れる」

と布告し、隣国パキスタンの首相が、

「イスラムの理念に反する」

として強く批判したことを紹介させていただいた。

実はこの発言には続きがあって、

(女子生徒が学校に戻れないという)事態は、遠からず改善されると思うが」

とも述べていたのである。

そして実際、遅々として、ではあるものの、改善されつつあることはユネスコなども認めているのだ。

アフガニスタンにおける泥沼の戦争状態は、1979年暮れに、同国内の社会主義勢力が「援助進駐」を要請し、ソ連軍が同国に侵攻したことに始まる。

これに対して、イスラム圏から多数の青年が義勇兵として「社会主義の大悪魔(=ソ連軍)」相手の戦闘に参加し、やがてそれぞれの国に戻って、イスラム過激派と総称される組織を立ち上げた。その中に、前回を含め本連載でも複数回触れている、オサマ・ビン=ラディンが含まれていたのだが、彼も今では「歴史上の人物」になりつつあると言ってよい。

いずれにせよ、半世紀近くにも及んだ武力紛争により、国土は荒廃し国中に貧困が蔓延した。そのせいで、教育を再建しようにも、校舎・教室も足りなければ資格を持った教員もほとんど残っていない、というのが現実なのだ。

つまり、学校に行けない子供が大勢いるのは、戦争によって引き起こされた政治的・経済的混乱や、それに伴って拡大した貧困にもっぱら原因が求められる。そのため、これは第三世界の多くの国々に共通して見られる、逆に言えばアフガニスタンだけの問題ではないのである。

そうは言っても……と、なお疑問を呈する読者もおられるかも知れない。教育環境が未だ整わない理由は分かるが、女子がまず閉め出されているのもまた事実ではないか、と。

これは一応その通りなのだが、その理由について考察する前に、客観的なデータを見ておく必要があるだろう。まずは、アフガニスタンの歴代政権が教育環境にまったく無頓着だったわけではない点を知っていただきたい。前述の、1979年にソ連軍が侵攻した時点で、かの国の識字率は驚くなかれ11%に過ぎなかった。それが1990年頃には30%に、そして2021年には37.3%と、着実に改善されてきているのだ。実を言うと、データによって数字に結構ばらつきが見られるのだが、これは15歳以上の成人を対象とした調査結果か、それとも学齢期=6歳以上の国民を対象としたそれかによって、数値が変わってくるからである。

また、女の子が教育の機会を奪われているという話も、半分正しく半分間違っている、というのが実態に近い。日本ユニセフ協会の調査によると、2018年の時点で、同国には学校に通えない子供が約370万人もいたが(ちなみに総人口は約4113万人=2022年世界銀行調べ)、うち6割を女の子が占めていた。繰り返しになるが、貧困と教育インフラ整備の立ち遅れのせいで、学校に通う機会を奪われているというのは、女子「だけ」の問題ではないのである。

ただ、かの国には女性蔑視の風潮がないのかと言われれば、それも少し違う。アフガニスタンは「列強の墓場」と呼ばれたように、大英帝国、ソ連邦、そして米国による侵攻を受けたが、ことごとく撥ねのけてきた。そうした歴史を持つだけに、同国の男性には、日本風に言うと「尚武の気風」といったものがあり、そこには男尊女卑の価値観がはらまれている。もちろん、個人差はあるが。

しかし、かつての日本にも似たような傾向が見られた。このことを忘れて安易に他国を批判するのはよろしくないと、私は考える。

わが国で近代的な学校教育制度が始まったのは、明治の「文明開化」の産物であるが、

「男女七歳にして席を同じゅうせず」

といった武家社会の価値観が未だ生きており、国民学校と呼ばれた初等教育機関にあっては、1,2年生=文字通り7歳までは同じクラスで机を並べるが、それ以上の学年になると、男女が別々のクラスになる例がほとんどであった。

学校によっては、低学年で同じクラスになってさえ、男女が並んで座ることはしない、という例もあったと聞く。また、戦前を舞台にしたドラマによく描かれるように、幼くして奉公に出されたり、幼児婚の結果として学業の機会を失った女の子も、決して少なくなかったのである。

しかしその一方で、女子教育の拡充もめざましかった。1871(明治4)年に有名な岩倉欧米視察団が海外を歴訪したが、これには58名の留学生が同行していた。その中に、当時まだ7歳だった津田梅子はじめ、5名の女子留学生が含まれていたのである。その津田梅子は、1900(明治33)年に女子英学塾(現・津田塾大学)を解説。同じ年、東京女医学校(現・東京女子医大)も設立された。政財界のエリートを輩出する学校と見なされていた旧帝国大学でも、1913(大正2)年に東北帝国大学が3人の女子学生を受け容れ、門戸が開かれている。

以上を要するに、現在の日本で急速に力を得つつあるジェンダーフリーの尺度で見たならば、アフガニスタンにおける女子教育の現状は「100年以上遅れている」と見ることも可能だろう。しかしそれは、イスラムの伝統的な価値観とはなんの関係もないし、一般的なイスラムの市民社会は、タリバンやイスラム国について、

「過激を通り越して、少し頭のおかしい連中」

であるとの評価を下している。

他国や異文化を評価するに際して、最も注意を要するのが「特殊の一般化」であるが、それは、もっとも陥りやすい過ちでもあるのだ。

【取材協力】

若林啓史(わかばやし・ひろふみ)。早稲田大学地域・地域間研究機構招聘研究員。京都大学博士(地域研究)。

1963年北九州市生まれ。1986年東京大学法学部卒業・外務省入省。

アラビア語を研修し、本省及び中東各国の日本大使館で勤務。2016年~2021年、東北大学教授・同客員教授。2023年より現職。

著書に『中東近現代史』(知泉書館2021)、『イスラーム世界研究マニュアル』(名古屋大学出版会)など。『世界民族問題辞典』(平凡社)『岩波イスラーム辞典』(岩波書店)の項目も執筆。

  • 朝日カルチャーセンター新宿教室(オンライン配信もあり)で7~12月、博士の講座があります。講座名『紛争が紛争を生む中東』全6回。5/17より受付中。詳細および料金等は、同センターまでお問い合わせください。

トップ写真:マララ氏がアフガニスタンの女性フットボールチームに会いスピーチをする様子(メルボルン、オーストラリア、2023年8月19日)出典:Photo by Kelly Defina/Getty Images

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