【新作『66』発売記念】ソロキャリアを救った日本人A&Rが語るポール・ウェラー

Photo : Nicole Nodland

2024年5月24日にニュー・アルバム『66』をリリースしたポール・ウェラー(Paul Weller)。ポール・ウェラーの通算28作目、ソロとしては17作目となるソロ・アルバムの発売を記念して、1992年にソロ名義として初のアルバムを発売しようとするも、本国では契約先が見つからないなかで、世界で最初、そして半年以上先行して発売となったアルバム『Paul Weller』の担当A&R、佐藤 淳さんに当時のお話や今年のライブ、そして最新作をお伺いいたしました。

ポール・ウェラーとの運命的な出会い

── まず、佐藤さんがポニーキャニオンでポール・ウェラーを担当される前のキャリアからお話いただけますでしょうか。

1990年に、ワーナーパイオニア(現在のワーナーミュージック・ジャパン)からポニーキャニオンに移りました。ワーナーのA&Rは沢山のビッグアーティストを担当させてもらい、洋楽少年にとってやりがいもプライドもある職責でしたが、自分の能力不足とパワー不足で担当作品全てにケアが行き渡らず、その疚しさが澱のように溜まって苦しかった。そんなタイミングに、ポニーキャニオンの洋楽部とのご縁があって移りました。

── 当時のポニーキャニオンといえば、80年代におニャン子クラブやチェッカーズなど、国民的ヒットをたくさん送り出した邦楽中心のレコード会社という印象です。

当時ポニーキャニオンの洋楽部はA&Mレコードとのライセンス契約があったのですが、私が入ったのがちょうどポリグラムがA&Mを買収したか、するかのタイミングで、そう遠くない時期にA&Mの作品を扱えなくなくなることがわかっていました。ですので、メジャーとの資本関係がないインディーのレーベルやアーティスト直の契約を模索していたんです。

フランスのカンヌで毎年行われているMIDEMという国際音楽見本市に行って、「エルヴィス・プレスリーの隠し子がいる、契約しないか」というようなことを真顔で言う詐欺師に出会ったりしながら、日本向きの洋楽を探している日々の中で、ある日、フジテレビで深夜に放送されていた『BEAT UK』という英国のチャートを紹介する音楽番組を観ていたら、ポール・ウェラー・ムーヴメントの「Into Tomorrow」が流れてきた。「いいね、ロックじゃん、戻ってきたな」と感じながらも、ザ・ジャムもザ・スタイル・カウンシルもずっとポリドールだったから、いいなあポリドールさん、って土曜の深夜にぼんやり思っていたんです。そうしたら、月曜の朝に出勤したら机の上にデモテープが届いていた。そこにポール・ウェラーって書いてあったんです。

── まるでドラマのような運命的なシーンですね。

まさに。そういう運命を信じるタイプなので、「あ、きた!」と思って。とても興味があるアーティストだったんで、もうこれは絶対に獲ると心に誓いました。一世を風靡したバンドをふたつもやってきた1958年生まれの同い年の男が3度目の勝負に挑むなら、これはもう自分が助けるしかないというノリになって(笑)、条件交渉に臨んだんです。

 

本国では“あいつはもう終わった”と思われていた

── 当時、イギリス本国での契約はありませんでした。1989年にザ・スタイル・カウンシルのアルバム『Modernism: A New Decade』がポリドールから発売を拒否されて、幻のラスト・アルバムになった後、解散してしまいますが、ほかのレコード会社が手を出しづらい状況だったのでしょうか。

契約に携わってくれた英国の弁護士から聞いたんですけど、ロンドンのA&Rたちからは“あいつはもう終わった”と思われていたみたいです。90年代に入って、イギリスでは新しい音楽ムーヴメントがどんどん出てきていたタイミングで、80年代の存在だと見放されていたんでしょうかね。でも、自分はなぜ、あんなにメロディを書けるアーティストを終わったとか言うんだろうと信じられませんでした。編曲はともかく、メロディは不滅なので。プラス人格から来るカリスマ性。なんであんなにまで、みんなあの男を好きになるんですかね(笑)。

── 音楽に一貫したアティチュードが常に伴っているからでしょうね。

そこなんですよね。ロンドンはポール・ウェラーを終わったとみなしていた。でも、自分は信じていた。日本での再出発がポシャったら自分の落ち度ですが、大袈裟に言うとロンドンの全A&Rに勝ったんだと思いました。手前味噌ながらオリコンの洋楽チャートの1位、邦楽も含めたチャートでも9位になったので。後になってから“モッドファーザー”とか言い出して、ロンドン遅っ! と思いました。失礼(笑)。

 

枠を超えた仕事

── ポニーキャニオンから世界に向けてソロ・デビューを果たしたということですよね。

そうそう。ロンドンのオックスフォード・ストリートのHMVでポニーキャニオン盤が輸入盤としてめちゃめちゃ高い値段で販売されていて、しかも売れていると聞いて、さらによっしゃー! となったり。ただ、編成実務は結構大変でしたね。

ジャケットのアートワークひとつ取ってみても、ユニバーサルやソニー、ワーナーだったら当時も海外からの定期便があって、ちゃんと素材が送られてきて、パブリシティ素材も準備されていてというシステマチックな流れができていたんですが、そうした事務作業をそれまでポリドールが全部やってくれていたウェラー側は手順がわかっていなかった。

必要なことがあるたびに、おとっつあん(ポールの父、ジョン・ウェラー)に連絡するんですが、向こうもインディーは初めてだし、お互いにやりにくいなあと心の中で思い合いながら進めていきましたね。あと、いちばんびっくりしたのは、デモ・テープが送られてきたこと。制作が進捗していったのか、曲が増えたデモ・テープがまた送られてきて、「これでいいか?」って聞かれたんですよ。

── 日本のレコード会社の洋楽セクションは送られてきた素材を日本盤として商品化して、プロモーションすることが主な仕事としています。でも、その時点で契約しているのはポニーキャニオンだけであり、必然的に佐藤さんが担当ディレクターになったと。

そうなんです。でも、判断するのは発売元の自分しかいないということに気がついて。なんだか邦楽ディレクターになったみたいだなって思いました。それまでの洋楽人生で、そんな場面に出くわすことは一度もなかったから、びっくりしましたね。

── その送られてきたデモ・テープで進んでいき、ソロ・デビュー・アルバムとして発売されたんですね。

会社としてはスタカンの延長線上のようなおしゃれな路線を期待していたみたいなんですが、ロックなまま行きたいと上を説得しました。そもそも、音楽のことで彼が他人の言うことなんて聞くわけないですし、同い年の男として、やりたいようにやらせてあげたかったんです。それで失敗するならば、自分も同じ目にあおうって。幸い、その勝負には彼とまあ勝ったわけですが。おとっつぁんは、ポールと同い年のお前は日本の息子だと言って喜んでくれましたよ。

── ザ・ジャム時代からずっと側にいた名物マネージャーとして有名でした。

もうね、実は天才マネージャーなんですよ、おとっつあんは。普通、アメリカのマネージャーとかだと、まず自分たちの利益優先になるんですが、おとっつあんは、息子のことを一番に考えるんです。だから、無償の愛というか、判断もすごく直接的なんですよね。こういうファミリービジネスもあるんだなって。

でも、都合が悪くなると連絡を寄越さなくなるし、俺はレンガ職人だからわからないって煙に巻いたり(笑)。英国の労働者階級らしい、ちょっとシャイで、基本お前のことを信用していないぞっていう感じで、そのヴァイブスを乗り越えて彼らの懐の中に入っていくというのは新しい経験でもあり、すぐにハグをしてくるアメリカ人よりもイギリス人の方が自分には合っているような気がして辛いけど気持ちよかったです。

 

プロモーション来日での逸話

── 1992年3月にはプロモーションで来日もしました。担当ディレクターとして、どのようにしてもう一度、ポール・ウェラーの名前を上げようとしたのでしょうか。

とにかくもう一度、ポール・ウェラーという名前を地図の上に載せたかったんです。当時はインターネットなんてなかったから、幸いなことにイギリスから“ポール・ウェラーは終わった”というムードが全然伝わることなく、東京ではポール・ウェラーがソロで再出発するという期待感がすごく高まっていました。そこでスタカン時代は両国国技館、横浜アリーナでやっていたけれど、あえてクラブでのショーケース・ライヴを企画したんです。

── 西麻布のイエローで行われたシークレット・ギグですね。そのレアなライヴ音源はFMラジオでも放送されて、エアチェックして何度も聴きました。

あとはワーナー時代のご縁を活かして、深夜の地上波にも出演してもらいました。ロック・アーティストがTV番組に出るというのは賛否両論あるんですが、ポール・ウェラーがカムバックして、全国ネットのTVに出ているんだよという既成事実を作りたかったんです。でも、本人はカメラワークが気に入らなかったらしく、部屋のTVを足で蹴っていたそうですが(笑)。

── プロモ来日の際は、どんなことを話しましたか?

ポールも自分もお互いにシャイで、ポニーキャニオンの会議室で人見知りの中年男ふたりが黙って向き合って座っているみたいな関係で、世間話とかはしなかったですね。僕らがあなたのためにできることはこうですと伝えて、あなたのことを信じているっていう話をしたことはおぼえています。

「我々は同い年だ、あなたは3回目の勝負に出ようとしている、自分もレコード会社を変わって勝負している、この国でふたりで勝負しようよ」というようなことを話して、信頼されているかはよくわからなかったですけど、少しずつ関係がマシになっていったような気がしました。

── 2018年に行われたEX THEATER ROPPONGIのステージ上で、ポール・ウェラーは佐藤さんに向けて感謝を伝えました。その場にいましたが、やはり誰も見向きもしなかった時代に手を差し伸べられて、再出発したことは感慨深かったんでしょうね。

ステージであんなこと言ってもらったんだから、こっちは当然アフターショウに会いにいくじゃないですか。でも挨拶に行ったら、もぬけの殻だったんですよ。そういう素っ気なさは出会った頃と変わっていない(笑)。

── なんとなくわかります(笑)。プロモ来日でのメディアへの仕込みは万全でしたが、ファンに対しての施策や企画もあったのでしょうか?

会えるアイドル商法をやりました(笑)。それも10年以上も早く。来日公演のチケットとCD両方を買ってくれた方から抽選で、各会場10名限定でミート&グリートを行ったんです。頼んでみたら、本人も意外とすんなり受け入れてくれて。

── ザ・ジャム時代から公演前、公演後にずっとサインすることでも知られていました。

自分をここまでのポジションに連れてきてくれたのはレコード会社やメディアじゃなく、ファンなんだということをわかっていたからでしょうね。そのミート&グリートで印象的だったのが福岡でした。ポール・ウェラーに会うために当選者10人全員が廊下で待っているんですが、ずっとブツブツ、ブツブツつぶやいて、みんな自分で考えてきた英文をおさらいしているんです。英語で面接を受ける直前みたいな光景でした。

その中で、モッズスーツでばっちりきめた男の子がポール・ウェラーに「I want to be you」と一生懸命言ったら、「俺なんかになるな、お前はお前自身になれ」とポールが答えた。「来た! これだ」って、震えましたね。オリコン1位になった背景は、こういうことなんだなって。まさに生き様を目にした瞬間でした。一生忘れられない光景です。

── まさにモッドファーザーらしい言葉ですね。モッズとは音楽やファッションだけじゃなく、生き様なんだという。

あと、プロモ来日の余談になりますが、ある日、ポニーキャニオンのオフィスに見知らぬ青年が自転車に乗ってやって来て、飛び込みで社内のフロアに入ってきたんです。その頃はセキュリティもうるさくなく、誰でもオフィスに入って来れた鷹揚な時代で、応対した洋楽部員が「淳さん、なんか変わった方が来てますよ」と耳打ちしてくれてそちらを見たら、お洒落スーツ着た小柄な青年が立っていて、イノセンスの後光が差していました。一方、彼の周りでは宣伝部の同僚たちが電話で口八丁にプロモーションしている光景の中で、その方がすごく清らかに見えたんですよね。いや、同僚たちは懸命に仕事してただけで、決してけがれているわけじゃないですよ。

まさに彼はポール・ウェラーへの取材を申し込みに来ていたんですが、立ち姿だけで取材OKしちゃったんです。創刊号準備のタイミングで、まだ世に出ていない、どんな雑誌になるかもわからない。でも、信じちゃったんですよね。「これからはクールレジスタンスです。全共闘のような時代じゃないんです」って、熱く語られて。

一方で、彼に取材OKを出したら、取材枠が一枠減るわけです。宣伝にお詫びして取材スケジュールを入れ替えてもらってイエローでのライヴ直後にその青年にウェラーを取材してもらいました。それが『BARFOUT!』創刊号になりました。

そんなこんなで、プロモ来日は満足できるものでした。そして、その後、ポニーキャニオン所属だったチェッカーズの武内享さんが「ポール・ウェラー、キャニオンになりましたね」と声かけてくれたんですああ、こういうことを言われるようになるために自分は辛い決断をしてポニーキャニオンに来たんだろうな、って、思いました。

 

ソロ2作目以降や今年のライブ、新作

── その後、ポール・ウェラーはGo! Discsと契約。本国でも半年遅れでデビュー作がリリースされました。

(1993年発売、ソロ2作目の)『Wild Wood』からはGo! Discsが素材を送ってきてくれたので、いわゆる日本の洋楽A&Rの仕事に戻りました。でも、『Wild Wood』のスペシャル・サンクスの欄に自分の名前があったのは驚きました。デビュー作での仕事が報われたというか。どれだけがんばってもプリンスは名前を載せてくれないじゃないですか。当たり前だけど(笑)。

その後もポニーキャニオンとはアルバム3枚の契約だったので、『Stanley Road』まで担当しました。そのGo! Discsも1996年にポリグラムの傘下となって、1997年からはアイランドに所属しましたので、彼もおとっつあんもやっぱりイギリスのレーベルに戻りたかったんでしょうね。

── 今年1月のライヴはご覧になられましたか?

はい、ポール・ウェラー側から招待してもらって観てきました。今回は楽屋に残ってましたね(笑)。中に入ったら、孫やメンバーの子どもたちがわちゃわちゃしていて、なんだかジョー・コッカーの『マッド・ドッグス&イングリッシュメン』のドキュメンタリー映画みたいな雰囲気で、バンドを含めたファミリーが世界中をツアーして回っている様子がうかがえましたね。

わざわざそうした環境を作ったとは思えないんですが、10代の頃からずっと家族や親しい人たちに囲まれて、音楽をやり続けてきた。おとっつあんが亡くなり、いつしか自分自身が最年長になったけれど、変わらないものは変わらない。良かったなとしみじみ思えた情景でした。別れ際に「また六年後*に会おうな。生きてろよ。」って言われて、おいおい、六年後俺ら何歳だよ、と心の中で突っ込みました。(*前回来日から六年)

── そして、66歳の誕生日の前日にあたる5月24日に新作『66』をリリースしました。ソロ・デビュー作から数えて32年、17作目にあたります。

1月に会って、ここまでの道のりを思い出したんですが、彼と自分の関係性って、自分とイギリス、ロンドンの音楽シーンとの関係なんですよね。アーティストだけでなく、レーベル、マネージャー、弁護士…。そうだよな、お互いにもうすぐ66歳だもんな、と感慨深くなっていたら、タイトルがそのまんまの『66』(笑)。

顔を合わせるのは間の開いた来日したときだけ、それも2分くらい。でも、その瞬間に彼と一緒にすばらしい音楽の旅をしたことを思い返すんです。創作意欲が枯れることなく、やりたいこと、伝えたいことがあるし、クオリティを下げることなくサウンドも熟成し続けている。もうひとり同い歳で、やはり多作だったプリンスは57歳で亡くなってしまった。もう新作を聴くことはできない。だから、ウェラーにはこれからも思うまま音楽を続けてほしいですね。同い歳の僕もしぶとく楽しいを探し続けます。

Written & Interviewed By 油納 将志(British Culture in Japan)

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