「子供たちには嫌われ…」仕事人間で家族をないがしろにしてきた夫が定年退職後の夫婦旅行で「号泣した理由」

川島大吾は65歳を迎え、新卒から勤め上げた会社の定年退職を迎えた。

「長い間、お世話になりました」

終業後にオフィスで同じ部署の仲間たちに向かって、感謝を述べる。女性社員から花束をもらい、見送られながら会社を出る。

不思議な気分だった。彼らはまた明日からもこの会社で仕事を続けるが、大吾にはもう明日からその仕事も席もない。

電車に乗っているとようやく実感が湧いてきた。この世界から居場所がなくなるということに対する寂しさがあった。

大吾にとって仕事は、自分という人間の存在意義だった。

勉強や運動が優れていたわけではない。容姿が整っているわけでもなく、間違っても異性の注目を集めるようなタイプでもない。

ただ生真面目な性質が功を奏し、仕事ではうまくいった。むしろ仕事だけがうまくいった。43年、そうやって生きてきた。

だからこそ仕事をなくした明日からの生き方が、大吾にはうまく思い描けなかった。

もちろん再雇用も考えている。しかしこれまで責任ある仕事を任せられ、それに見合う報酬をもらってきた大吾にとって、大幅な収入のダウンや仕事内容の変化は手放しに受け入れることが難しくもあった。

現在、日本人男性の平均寿命はおよそ84歳。

それに従えば、大吾の人生はあと20年近く残っていることになる。

あと20年。いったいどう過ごせばいいのかと途方に暮れながら家路についた。

仕事を理由に家族をないがしろにしてきた

家に帰り、風呂で汗を流したが、いまいち食欲はなかったので棚から日本酒を引っ張り出す。定年退職の祝いにと用意しておいたものだった。

「満子、今日でお勤めが終わったよ。お前にはいろいろと迷惑をかけたな」

大吾は妻の満子に話しかける。満子は口数も少なく、半歩後ろを静かについてくるような、自分にはできすぎた女房だった。

「こんな仕事人間と一緒にいて、大変だったろう」

自嘲的に笑い、日本酒を呷(あお)る。アルコールの熱が喉を通っていくが、心にあるしこりは流れない。

仕事だけがうまくいった。満子と結婚し、健と由紀子、2人の子供に恵まれると、一家の大黒柱としての責任が、仕事へ向かう姿勢をより強固なものにした。2人の子供と遊んでやったり、家族を旅行に連れていったことすらない。それなのに、気まぐれに父親面をし、厳しく接した。嫌われて当然だった。

そうやって2人の子供たちにはっきりと嫌われるようになってからは、大吾はより一層仕事へと傾注した。本当にただ仕事だけをし続けた。

だがそのせいで家族は壊れた。健も由紀子も実家には寄り付かず、もう何年も会えていない。仕事を理由に家族をないがしろにし続けた、当然の報いだった。

長い間、大吾は取りつかれたように仕事をしているときがあった。

「満子、何かやりたいことはないか? 退職金も入ったし、どこか旅行にでも行こうか」

大吾はそう提案をしてみる。満子はほほ笑んでいる。

「箱根でも行こうか。温泉でのんびりしよう。お前は寺とか好きだっただろう」

今日まで普通に働いていたとはいえ、2人とも還暦を越えた老体だから遠出は骨が折れる。箱根くらいがちょうどいいと思った。それに箱根には温泉もあるし、箱根神社はパワースポットとしても有名だった。

大吾はネットで調べ、ゴールデンウィーク前の4月半ばの平日に宿を予約した。

平日に旅行の予定を立てるなんてことも定年退職したからこそできることだと思うと、無職も悪くないのかもなと思った。

妻・満子は…

夫婦水入らずの旅は、新婚旅行以来だった。

移動は新幹線と電車、どちらにするか悩んだが、ゆったり景色も楽しもうと電車にした。

チケットを2枚取り、景色が見える窓側の座席に満子を座らせた。

電車に揺られていると車掌が切符を切りにくる。大吾はチケットを2枚差し出す。車掌は一瞬固まって、何事もなかったかのように2枚の切符を切って立ち去っていく。大吾は居心地の悪さを感じたが、気を取り直し、満子と2人、景色を見ながら駅弁を食べた。

箱根湯本の駅で降り、そのまま予約しておいた旅館へと荷物を置きに向かった。もっと移動で疲れているかとも思ったが、思いのほか元気だったので予定を変更し、2人で早速お目当ての箱根神社に向かった。本殿でお参りをし、神社のなかを散策した。箱根神社には平和の鳥居と呼ばれる水中鳥居があった。芦ノ湖のほとりに建てられたその鳥居を見て、年がいもなく写真を何枚も取ってしまった。

旅館に戻った大吾は温泉に漬かり、地元でとれた食材を使った料理を楽しんだ。仕事をしているときはこんなふうにゆっくりする時間も作れなかった。満子はきっと身を粉にして働く夫ではなく、時間を求めていたのかもしれない。

手酌をしながら満子を見やる。

満子は本当によくできた女房だった。だが半歩後ろをついてくる満子のことを、自分はちゃんと見てやれていたのだろうか。神社や仏閣が好きだと言ったのも、結婚して間もない頃に聞いた話だ。若いうちに色んなところを回っておかないとねぇ。満子の声がよみがえる。これはきっと旅行に行こうという誘いだったのだろう。だが大吾は、忙しいから無理だと無碍(むげ)に断った。

大吾は熱かんを一気に飲む。視界がぼやけた。酔いではなかった。熱い涙がこぼれ落ちていた。

大吾は仕事を理由にして満子から、2人の子供たちから目を背け、逃げてきた。そんな人生を歩んでいた。しかしもう俺に逃げ場はない。

「俺はこれからどうやって生きていけばいい……?」

大吾は目の前の満子に尋ねる。

しかし遺影の満子に返事などできるはずもなかった。満子の前に注いだ熱かんは、もうとっくに冷たくなっている。

●後悔先に立たず。満子はすでに帰らぬ人となっていた……。大吾はこれからの人生に生きがいを見いだす事はできるのだろうか? 後編【「お父さんが殺したんだ!」崩壊した親子関係の“やり直し”を決意させた亡き妻の「日記に書いた願い」にて、詳細をお届けします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

梅田 衛基/ライター/編集者

株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。 マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。

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