【海の向こうの台湾で神様になった日本軍人】 高田又男とは

画像:保安堂正面 wiki c Ahph

豊かな漁場に恵まれ、「水の都」として名高い台湾の南西部の都市である高雄市の郊外に、鳳山紅毛港保安堂(ほうざん こうもうこう ほあんどう)という廟がある。この廟は「海衆廟」と呼ばれる、海で見つけられた身元不明の遺体を祀る場所だ。

豊漁のご利益をもたらすとされる保安堂に神として祀られているのは、第二次世界大戦時に海に散った旧日本海軍の「第三十八号哨戒艇」とその乗組員である。

日本から遠く離れた海で没した第三十八号哨戒艇の艇長・高田又男大尉とその部下144名は、なぜ台湾で神として祀られるようになったのだろうか。

今回は保安堂の神「海府大元帥」こと高田又男大尉と、鳳山紅毛港保安堂の成り立ちについて触れていこう。

バシー海峡で撃沈された「第三十八号哨戒艇」

画像:日本海軍の哨戒艇(第35号哨戒艇) public domain

1944年11月25日1時15分ごろ、太平洋戦争において南方の海上護衛を担っていた日本帝国海軍の第三十八号哨戒艇(旧樅型駆逐艦・蓬(よもぎ))は、フィリピン・マニラから台湾・高雄への輸送作戦に従事していた「さんとす丸」の護衛のために、他の哨戒艇らとバシー海峡を航行していた。

しかし、アメリカ海軍の潜水艦「アトゥル」にレーダー探知され、艦橋および機械室付近に2本の魚雷による攻撃を受ける。

第三十八号哨戒艇は、被弾からものの1分ほどで護衛対象のさんとす丸と共に沈没し、乗組員であった哨戒艇長の高田又男大尉と、部下145名は戦死したのだ。

太平洋と南シナ海を結ぶ海運の要所で、さんとす丸含む日本軍の多くの輸送船が撃沈されたバシー海峡は、「輸送船の墓場」とも呼ばれた。

海から引き上げられた頭蓋骨

第三十八号哨戒艇が撃沈されてから2年後の1946年、紅毛港の漁師が仕掛けた漁網に頭蓋骨がかかった。

漁師は引き上げたその頭蓋骨を持ち帰り、元々海中から拾われた人間の大腿骨が祀られていた、草葺(くさぶき)の祠の神棚に「海府尊神」として祀った。

その頭蓋骨が神として祀られて以降、紅毛港では大漁が続くようになり、「海府尊神」は霊験あらたかな神として漁民たちから信仰を集めるようになる。そして頭蓋骨が引き上げられてから7年後の1953年には、「海府尊神の廟」として保安堂が建立された。

それから15年後の1968年、蘇現という老漁師が船上で休憩中、その夢枕に海府尊神が立ち「祠を建て替えてほしい」と告げた。そして海府尊神は祠を建てる場所として、砂浜にある「亀の穴なる場所」を指定したという。

蘇現が実際にその場所に行ってみると本当に亀の卵が出てきたため、人々は「蘇現が見た夢は、紛れもないご神託である」と信じ、保安堂の拡張工事が行われた。

霊媒師が語った海府尊神の正体

海府尊神が蘇某の夢枕に立ってから32年後の1990年、さらに驚くべきことが起こった。

画像 : 高田又男大尉 public domain

日本語を話せないはずの台湾の霊媒師が神がかり、「私は日本第三十八号軍艦の艦長であり、太平洋戦争中に死亡した。日本の護国神社に帰りたい」「部下を郷里に帰すことができず悔やんでいる」と、流暢な日本語で語り出したのだ。

海府尊神の信者たちが霊媒師の指示に従い沖縄の護国神社を訪問したところ、日本海軍記念碑に記された「日本第三十八号軍艦撃沈」という碑文を発見する。

そして信者たちは海府尊神が旧日本海軍の軍人であったことを確信し、海府尊神の名を「海府大元帥」と改め、霊媒師が語った「日本第三十八号軍艦」は第三十八号哨戒艇、海府大元帥はその艇長だった高田又男大尉であると解釈したのだ。

信者たちは海府大元帥と部下たちの遺体は見つからなくとも、魂だけは祖国日本に帰れるようにと、翌年の1991年に造船職人に依頼して日本式軍艦の模型を作成し、海府大元帥の御座船「38にっぽんぐんかん」として保安堂に奉納した。

画像:鳳山紅毛港保安堂で祀られる第三十八号哨戒艇 wiki c Kamakura

それ以来保安堂では、定められた日の朝6時と夕方17時に「君が代」と「軍艦マーチ」を流し、第三十八号哨戒艇が撃沈された11月23日には毎年慶典を開いて、英霊たちに奉祀するようになった。

現在の保安堂は日本からの訪問者も増え、日台交流の場としても知られるようになった。信者たちが神像を携えて日本に訪れ、靖国神社や明治神宮を参拝することもある。

2022年9月には、同年7月8日に死没した安倍晋三元首相の銅像が設置されたことが話題となった。

79年の時を超えて再会した父と息子

画像:紅毛港保安堂の拝殿 wiki c Key3688

海府大元帥の正体が判明して以降、保安堂の信者や関係者たちは第三十八号哨戒艇の乗組員の身元調査に乗り出し、全乗組員の身元が判明している。

さらに2020年1月には、高田又男大尉の息子である高田鳴海氏が熊本県に在住していることも突き止め、連絡を取ることに成功した。

そしてコロナ禍を経た2023年8月6日、81歳となった鳴海氏は台湾に渡り「神様の息子」として歓迎され、保安堂にて自身が2歳の時に戦没した父との念願の再会を果たした。

日本から準備してきた日本酒と供物を祭壇に供えた鳴海氏は、神として祀られる父の写真に手を合わせ、しずかに涙をこぼした。

保安堂の関係者は、現在も第三十八号哨戒艇の乗組員の遺族や親族、縁者を探しており、祭壇の左右両脇には高田又男大尉含む145名の名を記した名簿が掲示されている。

参考文献 :
張吉雄(著)『台湾高雄の「紅毛港保安堂」について : 台湾と大日本帝国海軍を繋ぐ神廟』

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