タレントとしてもテレビで活躍した落語家の桂ざこば(本名関口弘)さんが12日午前3時14分、ぜんそくのため大阪府の自宅で死去した。76歳。大阪市出身。葬儀は近親者で行う。後日、お別れの会を開く予定。一本気で情に厚かったざこばさんは、先輩にはかわいがられ、後輩には慕われるという、誰からも愛される存在だったという。
ざこばさんは中学卒業後の1963年、後に人間国宝となる桂米朝さん(2015年死去)に入門し、朝丸と名乗った。
15歳で弟子入りし、まだ子供だったが、人懐っこいざこばさんは誰にでもかわいがられたという。
当時を知るお笑い関係者は「師匠の米朝さんより年上で、仁鶴さん、鶴光さん、鶴瓶さんを弟子に持つ笑福亭松鶴さんもざこばさんをかわいがった。別の一門の師匠と飲み友達なんて普通はありえないけど、2人はよく飲みに行っていた。松鶴さんは酔うと『ホントの友達は朝丸だけ』と言っていたほど」と明かす。
また漫才師として大人気者だった横山やすしさんにもかわいがられた。
「後輩だけど遠慮なく話しかけてくるざこばさんのことをやすしさんは大好きだった。やすしさんは不祥事を起こしてよく謹慎していたが、そうなると同じく毒舌がウリだったざこばさんが代役を務めることが多かった。そのためやすしさんに『兄さんが休むと仕事が増えるから、どんどん謹慎して』などと冗談で話すこともあった」(同)
一本気で曲がったことが大嫌いなざこばさんは、普段は兄弟子の桂枝雀さん(1999年死去)を実の兄のように慕った。ざこばさんは1994年に上方落語協会を一時脱退したが、これは枝雀さんを思っての行動だった。
まず枝雀さんの一門が上層部と対立して協会を脱退。ざこばさんは当初、辞める気はなかったが、その後「協会より枝雀兄ちゃんの方が大事や!」と、自分の弟子とともに協会を脱退したという。
一方で後輩の面倒見が良かったことでも知られる。米朝さんの息子で、弟弟子である桂米団治は、ざこばさんが弟子入りした時はまだ幼稚園児だっただけに、とりわけ気にかけていたという。
「2人が同じ舞台に出演した際、先に出演した米団治さんの落語を見て、ざこばさんが『うまくなった』と感動。次が自分の出番だったが、舞台の上で『本当にうまくなった』『ずっと下手やと言われていたのに』などと言って号泣してしまったことがある。『もう落語はできない』と言って、米団治さんの小さいころからの思い出話をずっとしたこともあった」(同)
出番に恵まれない若手に高座の機会を与えるため、という思いから2008年には、生まれ育った大阪・西成に定員100人の寄席「動楽亭」を私財を費やして開設するなど、後輩の育成に力を注いだ。
歯に衣着せぬ発言でハレーションを起こすこともあったが、素顔はこの上ないほどの人情家だった――。