パチンコで得た“あぶく銭”で「ガチャ課金」 普通の大学生に負のスパイラルが導く「ギャンブル依存症」へのトビラ

1回100円の“ガチャ”も、300回、400回と続けば……(yosan / PIXTA)

米大リーグで活躍する大谷翔平選手の銀行口座から元通訳の水原一平被告が“ギャンブル”に使用するために不正送金を行っていた事件は国内外に大きな衝撃をもたらした。

しかし、ギャンブルのために罪を犯した人は水原被告以前にも多くいる。公益社団法人「ギャンブル依存症問題を考える会」が発行する「ギャンブル等の理由で起こった事件簿(平成第3版)」には、平成以降に起きたギャンブルを動機とした横領、強盗、窃盗、詐欺等の事件699件が記録されている。

社会的なリスクをはらむ「ギャンブル依存症(病的賭博)」。厚生労働省は2017年に実施した調査から、過去1年以内にギャンブル依存が疑われる人は約70万人(成人の0.8%)に上るという推計を発表している。

この連載では、会社員のセイタ(28)がギャンブルに飲み込まれていく様を追体験する。第3回では、パチンコに魅せられたセイタが、より身近なスマホゲームの「ガチャ課金」でお金を溶かしていく……。(#4に続く)

※この記事は染谷一氏の著書『ギャンブル依存 日本人はなぜ、その沼にはまり込むのか』(平凡社)より一部抜粋・構成。

未熟な学生が「堕ちて」いく

社会経験の少ない学生が「あぶく銭」を手にすれば、必然的に散財が始まる。セイタは欲しい服やアクセサリーを次々に手に入れた。

遊び方も変わった。生まれつき酒が飲めない体質なのに、キャバクラに行ったり、風俗店に出入りしたりした。時には大学の同級生を誘い、彼らの分まで勘定を払ってやった。友達が知らない世界を知っている自分――。周囲から一目置かれる優越感は心地よかった。

未熟な若者は、どんどんラクな方向へと堕ちていく。

日々の生活はバイトとパチスロに支配され、セイタの足は大学から遠のいた。めったに授業に出ず、課題の提出さえも怠るようになった。高校卒業まで、窮屈ながら品行方正な生活を送ってきたセイタの価値観は、すっかり別人のように塗り替わっていた。

バイトやパチスロ、キャバクラや風俗などに遊びに行く以外は、部屋にこもってスマホのソーシャルゲームに興じた。当時、流行していた人気ゲームにはとくに入れ込んだ。自分でつくったチームで敵を倒しながら、「ダンジョン」と呼ばれるステージを進んでいくタイプで、基本プレーは無料だが、当然ながらゲーム会社の収益源となる「課金ガチャ」のシステムが存在した。

ガチャで、自分が求めるレアキャラを獲得できる確率は低い。狙った獲物が当たるまで、延々とガチャを引き続けてしまうプレーヤーもいた。当時の料金設定では、1回ガチャを引くたびに、ゲームアカウントに紐づけてあるクレジットカードの口座から100円が引かれた。このときのセイタにとって、1回100円のガチャは大した負担ではない。だが、それが300回、400回と続けば……。

「たとえば、手元に6万円あったとしたら、1万円ぐらいをゲームに使っても、日々の生活にまったく影響は出ません。だけど、欲しいアイテムがなかなか出ないと、延々とガチャを引き続けてしまう。あっという間に課金額は2万円、3万円と膨らんでいき、そのうちに「1万円あれば生活できる」と自分に言い聞かせるようになり、気がついたら5万円を突っ込んでいた、などが普通になっていました」と当時を振り返る。

「ネトゲ廃人」生み出すゲーム・ネット依存

2013年、ドイツの精神医学者、マンフレド・シュピッツァーが出版した『デジタル・デメンチア』が世界中で話題になり、日本語訳も発売された。

「デメンチア」は「認知症」の意味だが、本のタイトルは著者のオリジナルではなく、韓国の医師グループの発表論文に基づくものらしい。「若者たちの間で記憶障害、注意障害、集中力および感情の皮相化、一般的な感情の鈍麻が増加傾向にある」ことが、さまざまな事例を使って紹介されている。

1950年代、テレビの普及が始まったころ、ジャーナリスト、社会評論家の大宅壮一氏が「テレビ、ラジオによる一億白痴化運動」と似たようなことを言っていたので、「またか」と思わないでもないが、放送時間など、プログラムに左右されることがないネット依存・ゲーム依存の深刻さは、当時のテレビ・ラジオとは比較にならない。

かつて、テレビばかり見ている子どもは「テレビっ子」と呼ばれ、むしろ今ならのどかな響きまでも感じるが、ネットゲーム、ソーシャルゲームの世界では、度を越した没頭、ゲーム内の架空世界に耽溺して、社会生活が送れなくなった「ネトゲ廃人」さえ生み出してしまった。

すでに「ゲーム依存」「ネット依存」は深刻な問題となっている上に、今後、メタバースに代表されるような仮想空間が身近になれば、今以上にリアルなシミュレーションゲームが出現することは確実だ。シュピッツァーが『デジタル・デメンチア』で予見した以上に大量の「認知障害者」が出現する可能性だってある。

現金という即物的な報酬が目の前にちらつくギャンブルとは異なり、オンラインゲームのガチャは刹那の満足以外、何も手元に残らない。

それが非生産的な行為であることぐらいは、セイタは十分に理解していた。それでもやめられなかった理由は、手元にあった「あぶく銭」の存在だ。さらにソーシャルゲームのギャンブル性に、自分の理性が麻痺していたことが輪をかけた。自制心を促す仕組みがあった現実社会のパチスロチームとは違い、スマホゲームの舞台である仮想空間には、自分自身にストップをかけてくれるリミッターがなかった。

外に出るのはかったるい

この世には「永遠」など存在しない。

しばらくすると、「甘い蜜のありか」を教えてくれたバイト先の先輩たちが卒業、就職していき、現役学生のセイタだけが居酒屋のフロアに取り残された。パチスロに行くのも独りぼっちになった。もう、勝利の方程式は存在しない。だったら、きっぱりとやめればいいものを、相変わらずセイタはパチンコ店に出向いた。

金を稼ぐ必要があったのだ。バイト先の先輩はいなくなっても、大学の同級生たちとの付き合いは続く。一度、手に入れた「みんなから一目置かれる」というステータスは手放したくない。チマチマと地道なバイトでは、自分の「武装」は維持できず、あぶく銭が期待できそうな存在は、スロット以外に思いつかなかった。

パチンコやスロットは、ある程度のベテランになると、経験則が培われ、台の挙動から、勝てるかどうかの見極めができるようになるという。勝てない台にしか当たらなかったら、早いうちの撤収が鉄則だ。それは、熟練ギャンブラーの知恵であり、矜持でもある。セイタがかつて所属したチーム戦術の生命線でもあった。ところが、個人戦ではその鉄則が機能しない。報酬期待に理性が狂わされた未熟なフィールドプレーヤーは、パスを出す味方がいなければ、自分で強引にドリブル突破で局面を打開しようとする。

結果は言うまでもない。セイタは負け続けた。

当たり前の話だった。有象無象の敗者たちが、とぼとぼと店を後にしていくのがパチンコ店の日常風景であり、セイタがその一人に加わっただけの話だ。ジワジワと自分の持ち金が減っていくにつれ、ようやくセイタもパチスロに出かけていく価値がないことに気づいた。報酬期待と現実とのギャップにはね返され続けているうちに、出かけていく面倒くささが勝ったようだった。

ギャンブルから離れ、本来の自分を取り戻すチャンスだった。

が、そうはならなかった。やっぱり遊ぶ金は欲しい。わずかな時給のバイトなんか、もう面倒くさいが、家でゴロゴロしてソーシャルゲームばかりしていれば、手持ちの金はどんどん減っていく。

なんとかしなくちゃ――。

手っ取り早く、金を増やす……。社会経験のある大人なら、そんな手段など、どこにもないことはわかりきっている。だが、未熟な学生は、努力も苦労もせずに、「濡れ手に粟」の報酬ばかりを探し求めた。ギャンブルでは、得るよりも失う可能性が高いこともとっくに感づいてはいる。それでも、大した価値がない「自分の虚像(ステータス)」を維持するために、かつては唾棄すべき対象だった「ダサい行為」にしがみつこうとしていた。ここにギャンブル依存へのトリガーが隠れていた。

(第4回に続く)

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