「沖縄が受けた傷と事実は誰かに伝えなきゃならない…」宮沢和史が『島唄』を歌った日

今年で音楽生活35周年を迎えたミュージシャンの宮沢和史。彼は日本の音楽界でも特異な存在である。1993年にTHE BOOMとして発表した「島唄」を筆頭に、他のミュージシャンが志向する西洋的・白人的な楽曲とは異なる音楽性を追求してきたからだ。

そんな彼が生み出す音楽は社会からおおいに受け入れられ、稀有なシンガーソングライターとして見事に存在感を確立している。しかし、すべてが順風満帆だったわけじゃない。彼の立つ現在地は大きな土壇場を経験したからこその境地だ。

▲俺のクランチ 第56回-宮沢和史-

スティングが自分にとってのアイドルだった

宮沢が世に打って出たのは80年代末。原宿の歩行者天国(通称「ホコ天」)で2年半歌い続け、THE BOOMのヴォーカリストとして1989年にメジャーデビューを果たした。

THE BOOMの初ヒット曲は、2枚目のシングル「星のラブレター」。この頃のTHE BOOMはスカ色が強く、ジュン・スカイ・ウォーカーズに代表される縦ノリ系のバンドが多数を占めていたバンド・ブームのなかで、その音楽性は際立っていた。

つくづく底の知れない人である。そもそも、宮沢和史の音楽のルーツはなんなのだろう。誰から影響を受けたのかを具体的に聞いた。

「何人もいるんですけど、外国でいうとポリスというバンドにいたスティング。あの人からは影響を受けた……っていうより、アイドルです。どういうところがって言うと、イギリスのロックと、サードワールドのジャマイカの音楽をミックスしたバンドであることがまず一つ。

あと、彼は若さを維持してファンに見せていくというより、歳を重ねながら、その歳に合ったもの、その歳ならではのロックを見つけようとしている。だから、そこはローリング・ストーンズと違うところがあって(笑)。

ストーンズは『ミック(・ジャガー)はああでいてくれる』というファンの願いを体現していますよね? でも、スティングは歳を取りながらエッジの効いたことをずっとやり続けている。今はオーケストラとやったり。年相応の怒りとか美しさを音楽にするということですね。

日本でいうと、加藤登紀子さんや坂本龍一さんが好きです。どこに惹かれるかというと、旅をしながら出会った人たちと音楽を作っていくところ。未知なるものに飛び込んでいき、そこで出会ったもので、その次の自分の運命を決めていくっていう姿勢に憧れますね。僕もそうありたいな」

沖縄のことをもっと知りたいと思ったきっかけ

「旅をして出会った人と音楽を作る」「未知に飛び込み、そこで出会ったもので運命を決める」、彼の歩みを知る者なら納得の発言だろう。自身が「そうありたい」と願う姿を、宮沢は完全に体現しているからだ。

スカ調のリズムを取り入れた「星のラブレター」リリースから3年後、1992年にTHE BOOMは4thアルバム『思春期』を発表する。同作に収録されていたのが、のちにバンドに大ブレイクをもたらした「島唄」である。

「島唄」がチャートを駆け上がっていく光景を見て、当時、高校生だった筆者は驚いた記憶がある。あまりにも、かつてのTHE BOOMのイメージと違ったからだ。このドラスチックな変化にはどんな理由があるのだろう?

「バンド初期の僕は、外で交わったものに影響を受けて曲を作るというより、自分の内面の宇宙を見て、それを言葉にして音楽を作っていました。内向きな人間なので、“この世界をわかる人だけ聴いてくれればいいよ”みたいな」

そんな宮沢が「未知に飛び込み、そこで出会ったもので音楽を作る」という生き方に変わったのには、明確なきっかけがある。『思春期』の前作にあたる3rdアルバム『JAPANESKA(ジャパネスカ)』のジャケットを、わざわざ沖縄で撮影したのだ。

「僕はイギリスやアメリカのロックなどに憧れてバンドを始めましたけど、いざデビューしてから自問自答としてあったのは、“彼らのマネをしたままでいいのか?”ということでした。せっかくプロになったんだから、彼らに作れないものを作んないと」

そんな思いを抱えて制作に入った『JAPANESKA』。アルバムタイトルは、「ジャパネスク」と「スカ」を組み合わせた造語だ。

「エンヤトットとジャマイカの音楽は融合できるんじゃないか、と。それで和太鼓や三味線、そして琉球音階を取り入れたんですね。90年頃、当時は沖縄から刺激を受けたものを作品として出すバンドはいなかったので。

そして、琉球音階で曲を作っていくなかで、“沖縄のことをもっと知りたい”と思うようになったんです。“日本に一番近い異国”“日本から一番遠い日本”両方言えると思うんですけど、ここに学ぶところがあるんじゃないかと」

ジャケット撮影をするべく、沖縄の地に足を踏み入れた宮沢。すると、沖縄のあちこちにまだ戦争の爪痕は残っていた。その事実を知り、彼は衝撃を受ける。

「太平洋戦争末期に起こった沖縄戦の詳細を、僕はそこで初めて知るんです。ちっちゃい島のなかで20万人以上の死者が出て、沖縄県民の4人に1人が亡くなった計算になる。これは広島・長崎の原爆の死者数に匹敵する数字です。空襲も恐ろしいけど、沖縄戦は地上戦です。目が合った敵に銃を向けられた恐怖って、ほとんどの大和(日本本土)の人たちは味わってないから。

そういうことを僕は20代前半で知ったんですね。“俺たちはあまりにもモノを知らない”“今はバブル景気を体験してるけれど、沖縄の犠牲の上に俺たちは生活できている”と思うと、居ても立っても居られなくなった。そして、“これを誰かに伝えなきゃ!”という気持ちになった」

さらに、宮沢のお母さんのお父さん……つまり、母方の祖父は硫黄島で亡くなっているという事実があるのだ。

「日本はアメリカを迎え撃つために、太平洋の小笠原諸島の先に基地を作り、迎え撃つという作戦を立てた。それが大失敗して、多くの人が亡くなったんです。その作戦で、うちの母は父親を亡くしているんです。

昔は、終戦記念日になると各局が戦争の特番を放送していました。それを見ながら、母親がブツブツ言ってるんですね。子どもの頃は“自分の父を奪ったアメリカが憎いんだろうな”と思ってたんです。で、沖縄に行き、沖縄戦の本質を知るといろいろなことが見えてきた。

“太平洋戦争で負けるだろう”と日本がわかったとき、敗戦後の国体や天皇制を崩さないために準備する時間が必要だと。“じゃあ、沖縄で数か月、戦争をやって、そのあいだに国体をまとめておこう”という考えのもとに沖縄戦が始まった。『捨て石作戦』なんて、よく言いますけどね。

その本質を知ったとき、“うちの母親がブツブツ言ってたのは、アメリカに対してじゃなくて日本に対して怒ってたんだ”とわかった。“日本政府の判断が父の命を奪った”と母親は思っていた。それを僕は、沖縄に行って知ったんです。ですから、僕が沖縄にどんどん入り込んでいくのは、母のその横顔を見たというのも一つのきっかけです」

『JAPANESKA』の2年後に発表したアルバムを、『思春期』と名付けたのには理由がある。

「バブル景気のなか、俺たちは平和と物質主義を享受できている。でも、沖縄が受けた傷と、この事実は誰かに伝えなきゃならない。俺にとっては、これが生まれ変わるチャンスだ。大人になるチャンスだな。だから、『思春期』というタイトルをつけたんです」

▲生まれ変わるチャンスだと思って『思春期』というタイトルをつけた

沖縄からの絶賛と数パーセントの糾弾

アルバム収録曲だった「島唄」は、宮沢の「沖縄の人に恩返したい」という想いから、沖縄だけで発売される限定シングルになった。そして、その後「全国で発売してほしい」という声がレコード会社に殺到、「島唄(オリジナル・ヴァージョン)」として1993年に全国リリースされた。

宮沢の内面では、まさに思春期と呼ぶべき大きな変化が起こっていたが、それを知らないファンたちは、バンドの音楽性の尋常ではない変わりように驚いたはずである。

「ファンのなかには“なんでそっち行っちゃうの?”と離れていった人もいましたけど、それはしょうがないです。その代わり、新しくついてきてくれた人もいっぱいいました」

なにしろ、150万枚の大ヒットだ。それまで日本のロック / ポップスばかり浴びていたリスナーにとって、「島唄」は新鮮な衝撃だった。

そういえば、当時の筆者は「島唄」という曲は、もともと沖縄にあった民謡と思い込んでいた。違う。もちろん、宮沢が作詞・作曲を手掛けた曲だ。山梨出身の彼がこんな曲を作ったのだから、ファンからすると大きな驚きだった。

ところで、当時の沖縄県民の「島唄」に対する反応は、どんなものだったのだろうか?

「9割以上の人は大歓迎でした。“よくやってくれた”“本当は沖縄の人がやるべきなのに、あんたがやってくれてありがとう”っていう人が多かったです。ただ、一部にはあんまり快く思わない人もいました。ロックバンドが三線を持つことが不愉快だし、琉球音階を使うことも不愉快だと」

また、当時の沖縄は「沖縄民謡を総称して『島唄』と呼んでいこう」という流れが強い時代だった。

「ジャズ調の曲を作って、『ジャズ』って曲名をつけちゃうようなもんだから(笑)。それには抵抗があるという人が、特に音楽関係者に多かったですね。そのなかには糾弾する方もいたし、大和のほうからもいろいろ言われたり。最初から“そういう声もあるだろうな”と覚悟して発表したつもりだったんです。ただ、まさかヒットするとは思わなかった。

ヒットをすると“ありがとう”というポジティブな声は何倍にも膨らみますけど、その一方で数パーセントだった批判の数も、分母が大きくなってものすごい数になりました。そこは予想できなかったですね」

ラブソングに見せかけて沖縄戦の悲劇を伝える

しかし、そんな声もいつしか消えていった。喜納昌吉をはじめとした音楽家たちは、宮沢の挑戦を歓迎し、曲に込められた彼の想いは沖縄のうるさ型たちを納得させていったのだ。

▲いつしか俺のメッセージが伝わるだろうと思ってました

理由がある。「島唄」といえば、多くの人は恋愛の曲という印象を抱いているはずだ。じつは、この曲の歌詞はダブルミーニングになっている。

「島唄」は、「でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た」というフレーズから始まる。

「『でいご』という沖縄県の花がたくさん咲く年は、台風が多いっていう言い伝えがあるんですね。で、1945年の3月にはもしかしたらでいごがたくさん咲き、アメリカの艦砲射撃……当時は“鉄の暴風”と言われたんですけど、それが沖縄を襲ったんじゃないか。そんなイメージから、この歌詞を着想したんです」

「くり返す悲しみは 島渡る波のよう」という歌詞にも、裏の意味が込められている。

「もともと、琉球国は中国との冊封体制で成り立っていました。中国に認められて国として存続できたということですね。その後、今度は薩摩藩が1609年に侵攻してきて、両方(中国と徳川幕府)の支配に陥るんです。

そして、沖縄戦に負けたら今度はアメリカになった。道は右と左を変えさせられ、お金はドルになった。1972年になるとまた日本に戻されたが、基地は残っている。要するに、近隣の大国の帝国主義に常に飲み込まれている沖縄の姿は『島を渡る波のようだね』ということなんですね」

最後に、「ウージの森であなたと出会い ウージの下で千代にさよなら」という歌詞について。

「沖縄では、地下壕(防空壕)を『ガマ』って言いますけど、みんなで地下壕に避難し、そこで集団自決したり、または全員が助かったり……運命が分かれたんです。

サトウキビ畑の上で出会い、愛し合った僕ら幼馴染が、どうして地下壕の下で自決しなきゃいけないのか? そんな想いを込めて『さよなら』という言葉を選びました。一つひとつ、そういう裏の意味をつけたのが『島唄』の歌詞なんです」

沖縄に今も残る傷跡を多くの人に伝えたい。そう思っていたはずの宮沢だが、沖縄の現実をストレートに曲に反映させるやり方は選ばなかった。

「『島唄』が発売されたのは、バブルが終わる頃でした。世の中はまだお祭り騒ぎで、夢を見ているような感じだった。そんな時代に僕は沖縄戦の悲劇を知って、“今、これを伝えないといけない!”と思ったんです。

でも、バブルの頃に戦争の話をしても“うるせえ!”って誰も耳を貸してくれないだろうし、“今は楽しいんだから余計なこと言うなよ”と言われるだろうし。拡声器でシュプレヒコールを叫ぶような音楽だと、誰にも刺さらないということは薄々わかっていました。

だったら、ラブソングに見せかけて、一行一行に全部違う意味を含ませる。それを長くずっと歌い続ければ、ボディブローみたいに効いていき、いつしか俺のメッセージが伝わるだろうなって。ちょっと遠回りなやり方をしたということですね」

THE BOOM解散と音楽活動引退の裏にあった土壇場

日本の音楽界で確固たる地位を築いていたTHE BOOMは、2014年に解散する。その理由にあるのは、宮沢を襲った人生の土壇場だ。

「2000年代に入って首のヘルニアを患ったんです。神経に骨が当たると苦痛なんですけど、そういう発作が年に2回ぐらい起こるようになった。1回の発作のたびに10回ぐらいマッサージに行くんですけど、半年後にまた発作が起こる、みたいな体調がずっと続いていました。

2013年になると、とても歌どころじゃなくなってしまって、2014年にバンドを解散しました。で、“一人でやっていくか”とも思ったけど、首はさらに悪くなっていった。それで一度、2016年に音楽活動の引退を発表しました。ギターをしまい、マイクも置いて、歌をやめたんです。

その引退発表から2年間ぐらいはブラブラして、一人の作業に没頭していました。毎日プールに行って水の中で歩いたり、図書館に行って勉強したり、町の床屋に行って坊主頭にしてもらったり(笑)。

音楽はまったく聴いていませんでした。小学生の頃にギターを買って歌い始めてましたから、歌のない生活は自分にとって初めての体験です。やっぱり、歌っているから存在意義のあった自分が、その杖をなくすと“俺、なんのために生きてるんだろう?”みたいな自問自答になってきて、精神的にどんどん落ちていきました。

他人の言ってることが全て正しく聞こえたり、自分の思っていることがすべて間違って思えたり。“これからの人生、どうなってくのかな?”という土壇場でしたね」

しかし、引退を発表したはずの宮沢の元へ「うちのイベントで歌っていただけませんか?」というオファーが止むことはなかった。

「最初は“もう、やめました”と断ってたんです。だけど、今までだったら事務所が断っていたような、地域の小さなお祭りからの出演依頼に、ふと“行ってみようかな”と応えたら、なんか楽しかったんです。そこで、“あ、音楽を始めた頃って、こんな気分だったなあ”って。

だから、もう1回人生をやり直す、と言ったらネガティブに聞こえるけど、組み立て直せるのは土壇場を踏んだからですね。本当はTHE BOOMでずっとやっていきたかったですけど、これはこれで運命なんだろうなと受け入れて。

今はもう一人でマネージャーも付けず、やりたい音楽をやってる感じです。僕一人だけなので“スタッフをちゃんと食わしていかないと”という心配もないし、自分が生活できるくらいのペースでやれればいいわけだから。

だから、やりたいオファーだったらやるし、やりたくないものはやらないし。自分で自分の人生を選択できる今は気が楽です」

俺のことは知らなくていい 「島唄」を歌ってくれたら

人生の土壇場を乗り越えた宮沢が迎えた35周年。4月24日には、35周年アルバム『~35~』をリリースした。

記念すべき周年を迎えた今、社会に目を向けるとロシアによるウクライナへの軍事侵攻が世界を騒がし、まさに混沌とした時代だ。

だからこそ、改めて「島唄」の意義を再認識する。世界で何かが起こるたびに「島唄」は生まれ変わり、意義を増していく。

▲音楽を始めた頃を思い出して歌えるようになりました

大ヒットした曲を歌い続けることをイヤがるミュージシャンもいるだろう。きっと、宮沢は「島唄」を歌うことをこれからも望まれていく。本人は、それをどう思っているのだろうか?

「もちろん、『島唄』を求められることをイヤに思った時期もなくはないです。自分が変わっていく段階で、過去の自分を封印したいときってあるじゃないですか? ラテン音楽やブラジル音楽に傾倒しているとき、“どうしても、今回のツアーに『島唄』はそぐわないな”と思うこともありました。

だけど、あるときに気づいたんですね。“俺、島唄を繰り返しで歌ったことは1回もなかった”って。1回作ったものを同じように演奏して歌い、拍手が来る……その繰り返しがプロの仕事なんですが、『島唄』に関しては毎回、必ず生まれ変わっているんですね。新曲みたいな感覚なんです。

今まで、いろいろな方法でこの曲を歌ってきて、別に俺が歌わなくても誰が歌ってもいいんです。もう、俺が作った曲だと知らないで歌っている人もいっぱいいると思います。小さい子たちのなかには、“この曲を作ったのは死んだ人だろう”と思ってる子もいるだろうしね(笑)。

それはもう、ミュージシャン冥利に尽きますよ。別に俺のことなんて知らなくても、歌を歌ってくれたら、それが一番うれしいんです」

(取材:寺西ジャジューカ)


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