「人はまるで、火の海をさまよう魚の群れだった」 鹿児島大空襲から79年、炎の中を母と2人逃げ惑った女性が記憶をたどる

母と2人で火災の中を逃げ惑った鹿児島大空襲の経験を語る谷口あい子さん=鹿児島市山下町

 鹿児島市街地を一面焦土にした1945(昭和20)年6月17日の鹿児島大空襲から17日で79年となる。被災者の高齢化が進み、記憶の伝承が難しくなっている。当時5歳だった谷口あい子さん(84)=鹿児島市山下町=は、母と2人で炎の中を逃げ惑った幼い頃の記憶をたどり、「どこに行っても逃げ場はなかった。火の海を、人はまるで魚の群れのように右往左往するだけだった」と振り返った。

 易居町に住んでいた谷口さんは6月17日の夜、突如起こされた。いつも枕元に置いていた防空頭巾をかぶり、非常食のいった大豆や乾パンが入った小さな袋を肩に掛けて外に飛び出した。「メラメラとあらゆる所が燃えていた。火が火を伝って迫ってきた」。自宅が焼け落ちるのも目の当たりにした。「空襲が続き、いつか被害を受けるかもしれないと思っていた。ただただ眺めていた」と当時の捉えどころのない感情を振り返る。

 自宅にあった小さな防空壕には避難せず、仏壇など大事な物を運び出していた市役所前の大通り(現みなと大通り公園付近)のもう一つの防空壕を目指したものの入れなかった。通りにはあてもなく逃げ惑う住民と、意味の分からない大きな叫び声であふれていた。

 海の方へと逃げようとしたのか、焼け出された人たちは空まで赤くなった火の海を、一斉に同じ方向に動いていた。「まるでイワシの大群のように、大勢であっちに行ったりこっちに行ったりした」

 当時30代だった母が雑踏の中で転んでこう言った。「あい子ちゃん、もういいよ。ここで一緒に死のう」。逃げ疲れ、力尽き、座り込んでしまって起きようとしない母親。谷口さんは「嫌だ、絶対に嫌だ」とわめき散らして、ありったけの力で手を引っ張ったという。

 「母はついてきた。後はどのように助かったのか分からない」。記憶はぷっつりと途絶えている。空襲警報のサイレンが鳴ると、ガタガタと体が勝手に震え出したのを覚えている。今でも防災無線などのサイレンを聞くと、「不安をかき立てられるような嫌な気持ちになる」と話す。

 被災後、父の住んでいた長崎へ向かう途中に福岡県久留米市で再び空襲に巻き込まれた。「戦後は、人の心が荒れていた。殺伐とした社会が嫌だった」と谷口さん。今の世の中でも当時と共通する荒れた心を感じることがあり、気がかりだという。

 世界大戦のようなことはもうないと信じていたが、ロシアのウクライナ侵攻も起きた。「再び戦争の当事国にならないかと怖さを感じる。市民一人一人が、世界の情勢をしっかり見ておかなくてはならないし、戦争をしないために考えなくてはいけない」と語った。

戦前の鹿児島市街地。多くの建物、人命は1945(昭和20)年の大空襲で失われる

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