【ブル中野連載#1】社長令嬢生活から一転、父の会社が倒産して…「もしかして、ウチは貧乏?」

中野家の長女として誕生した(ブル中野提供)

【ブル中野・告白(1)】元女子プロレスラーの“女帝”ブル中野(56)の新連載「告白~ブル様と呼ばれた私~」がスタート! 極悪同盟加入、伝説の金網マッチ、米国マット進出、そして米「WWE」の2024年名誉殿堂「ホール・オブ・フェイム」入り――激動の半生を振り返る。

1968年1月8日、私は父・中野巳雄吉(みおきち)と母・洋子の長女として、東京・赤羽で生まれました。覚えているのは保育園のころからです。マンションの3階が自宅で、1階が保育園でした。父が塗装会社の社長で、社長令嬢として何一つ不自由ない環境で育ったので、同じ年の子たちと交流するのが初めてでした。

3階を見上げると、母が「大丈夫かな?」ってこちらをのぞいている。それを見ると帰りたくて泣いていたなあ。3歳の年少のころはイジメにも遭いました。私が座っていると、みんなが行列をつくって足のつま先を踏みに来るんです。それが終わると、いつも持っていたハンカチを開いて泣いていました。

でも、4歳のときです。いつもイジメてくるボスみたいな子が「カチューシャ貸してくれ」と言うので渡したら、壊そうとしたのです。いつもは反撃しない私が、初めて「嫌だ!」と思って突き飛ばしました。そのときから変わりましたね。やられたら、やり返すようになったのです。自分の中でも大きな変化でした。あれがなければ、ずっとイジメられっ子だったと思います。

卒園後は板橋区立成増小に入学。だけど3年の終わりに神奈川の葉山に引っ越しました。理由は父の会社の倒産。親戚の借金の保証人になっていたため、全額を返済することになったからです。母と私と妹の美智子だけが葉山に移り、父だけは池袋に住んで、借金取りのもとで監禁状態で働かされていました。

当時の私は借金取りに追われていることなんて知りません。両親からは「妹の体が悪いので、空気がいいところに引っ越さないといけないんだ」と説明されていたからです。ただ、生活はなじめませんでしたね。葉山はお嬢ちゃん、おぼっちゃんが住んでいる街だったので、みんな品がよくて…(笑い)。

毎週土曜日には父がお土産を持って葉山に来てくれたんですけど、ある日、犬の散歩をしているときに借金取りに見つかってしまって。ここも危ないとなって、5年生のときには埼玉の川口に移りました。葉山と比べると、家がひどくて…。1階は台所と小さな部屋が1部屋、2階は四畳半が2部屋ある小さくて汚い家でした。「もしかして、ウチは貧乏なの?」って思い始めました。

今はとてもいい街ですけど、当時の川口はそっちの筋の方や不良が多い街でした。私には合っていましたね。80年4月に進学した川口市立芝東中で1年の最初ころは、真面目でクラス委員とかやりました。部活は水泳部。翌年には全日本女子プロレスのオーディションを受けるのですが、その少し前から脱線した部分がありまして…。

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