追悼ジェリー・ウエスト――NBAロゴ誕生にまつわる裏話と、ロゴを巡る複雑なドラマ【NBA秘話:前編】<DUNKSHOOT>

選手が着用するジャージーはもちろん、ボールやコートなど、アリーナのあらゆるところにNBAロゴはあふれかえっている。ファンなら誰もが見たことがあるあのロゴのモデルが、往年の名選手ジェリー・ウエスト(元ロサンゼルス・レイカーズ)であることは周知の事実だろう。

しかし、リーグはそれを公式に認めたことはなく、ウエスト本人も自分がモデルであることを不快に思っているという。その理由は何なのか?一時期、活発化していた変更運動とともに、NBAロゴを巡る複雑なドラマに迫る。

■ロゴのモデルが誰であるかを公式発表したことがないNBA

左手でボールをドリブルしながらコートを駆ける選手の全身像が、赤白青の明瞭な色で構成されたNBAの見慣れたロゴマーク。あのシルエットのモデルが、往年の名選手ジェリー・ウエストであることは、NBAファンなら皆知っていることだろう。ウエストは“Mr. クラッチ”のほかに、“Mr. ロゴ”なるニックネームも授かっている。

だが驚くことに、NBAサイドはその事実を公式に認めていない。ロゴの製作者当人が、モデルはウエストであると公言しているにもかかわらず。そして当のウエスト本人は、自分がモデルにされ、そのロゴが現在も使用され続けていることを、実は快く思っていないのだという。
「あのロゴが世に出てこなければよかったと思っている」「今からでもロゴを他の選手に変えてもらって構わない」

そんなストレートな嘆き節まで口にしている。大人物であるウエストらしからぬ発言であり、逆に彼がそこまで嫌がる理由は何なのか、俄然興味が湧いてくる。

今からちょうど半世紀以上前の1971年、NBAのロゴは誕生した。シンプルで洗練された美しいロゴであり、そこに問題性は微塵も感じられない。ところが背後では、シンプルという言葉とはかけ離れた、複雑に入り組んだドラマが進行しているのだという。

今回はNBAロゴの誕生秘話に加え、ロゴを取り巻く人々の思惑や葛藤、さらには近年取り沙汰されている、新たなロゴへの変更問題について深堀りしてみたい。
事の発端は、第2代NBAプレジデント(後に“コミッショナー”へ改名)、ジェームズ・ウォルター・ケネディの思いつきだった。1967年、新たなプロバスケットボールリーグ、ABA(アメリカン・バスケットボール・アソシエーション)が誕生する。

アメリカ国旗の色をもじった3色のカラフルなボールをトレードマークに、NBAでは滅多にお目にかかれない派手なスラムダンクや、他リーグに先駆けて3ポイントシュートを導入するなど、よりダイナミックかつエキサイティングなプレースタイルを前面に押し出し、若者の心を捉えることに成功。NBAの強力なライバル団体として、その牙城をじわじわと崩していった。

ライバルの台頭に危機感を覚えたケネディは、一計を案じる。1950年代に長らくハーレム・グローブトロッターズの広報部長を担い、NBAの要職に就く前はコネティカット州スタンフォードの市長を務めるという異色の経歴を持つケネディは、優れた策略家でもあった。
1968年秋、MLBは野球のプロ化100周年を記念して、新たなロゴマークを制作し発表した。デザインを担当したのは、ニューヨークに拠点を持つマーケティング会社『サンドグレン&マーサ』のグラフィックデザイナー、ジェリー・ディオール。赤と青を背景に、バットを構えた白地の選手とボールが横位置に配置されたデザインは、“モダンブランドデザインの傑作”と讃えられている。そのプロジェクトの監修を務めたのが、同僚のアラン・シーゲルだった。

MLBのロゴをひと目見て気に入ったケネディは、NBAのブランドイメージ確立と、ABAとの差別化を目論み、NBAへのロゴ導入を決断する。すぐさまシーゲルに制作を依頼し、MLBのロゴと同様に赤白青の3色の使用と、選手のシルエットでの構成をリクエストした。アメリカ国旗と同じ色を採用することで、バスケットボールを野球と同じく“オールアメリカン・スポーツ”に位置付けたいという狙いもあった。

シーゲルは1969年に『サンドグレン&マーサ』を退社し、同僚と新たにブランディング・コンサルタント会社『シーゲル+ゲール』を立ち上げ、大成功を収める。業界の第一人者となり、クライアントリストには3M、アメックス、Dell、マスターカード、ディズニー、マイクロソフトなど、名だたる企業が並んでいる。その最初期に依頼を受けた仕事が、NBAロゴの制作だった。
『シーゲル+ゲール』はその後大手に買収され、シーゲルはチェアマンのポストを与えられるも2012年に退社。新たな会社『シーゲルビジョン』を創立し、現在も第一線で活躍している。

■ロゴのデザイン担当者が出会った“運命の一枚”

ニューヨーク州ロングアイランドの高校に通う身長188cmのシーゲルは、バスケットボールのスター選手だった。数十の大学から奨学金のオファーを受けたが、学業に専念するためすべて辞退し、名門コーネル大に進学。1年間プレーした後、本格的なバスケットボールとは距離を起き、勉学に勤しんだ。

そんな経歴を持っていたからこそ、NBAのロゴ制作には力が入った。『ESPN』のスポーツ&カルチャー情報サイト『The Undefeated』や、『ロサンゼルス・タイムズ』紙とのインタビューなどで、シーゲルは制作秘話を明かしている。
最初に検討したのは、カリーム・アブドゥル・ジャバー(元レイカーズほか)のスカイフック。ほかにもウィルト・チェンバレン(元フィラデルフィア/現ゴールデンステイト・ウォリアーズほか)、ジョン・ハブリチェック(元ボストン・セルティックス)、トム・ゴーラ(元ウォリアーズほか)、その他数人のスター選手が候補に上がった。

インターネットはもちろんのこと、NBAフォトもまだ存在していない時代である。素材探しに苦心していると、幼なじみであり、コーネル大の同窓生でもあった友人のディック・シャープが手を差し伸べてくれた。シャープは当時スポーツライターとして活動しており(後に有名ブロードキャスターとなり、4大ネット局の『ABC』や『NBC』で活躍)、とあるスポーツ誌が所蔵する写真アーカイブへのアクセスを取り付けてくれたのだった。

そこで出会った運命の1枚が、左手でドリブルをするウエストの写真である。ニューヨークで育ったシーゲルは、父がニックスのシーズンチケットを所有していたこともあり、ウエストのプレーは何度も生で見ていた。ハブリチェックやオスカー・ロバートソンと並んで大好きな選手の1人であり、また自分と同い年のウエストには親近感を持っていた。
ウエストは確かにシーゲルのお気に入り選手ではあったが、そのことがロゴのモデルに選んだ理由では決してなかった。ロゴの素材として、構図が完璧だったのだ。シーゲルはかつてインタビューで、次のよう述べている。

「このような静的なもの(ロゴ)を、生き生きと鮮明に描写することは難しい。緊張感のほかに、躍動感や優美さも持ち合わせていなくてはならない。それらを同時に表現することは、とてもハードな作業だ。シンプルでありながら、パワフルかつダイナミックでなければならない。このロゴには、それらの要素がすべて詰まっている」

元ネタとなったのは、『Basketball』という雑誌の表紙を飾った1枚。1967-68シーズンのプレビュー号で、青いジャージーを着たウエストが、シンシナティ・ロイヤルズ(現サクラメント・キングス)のロバートソンをドリブルで抜き去ろうとしている瞬間を切り取った1枚だ。画像処理ソフトを用い、ロゴと写真のウエストのサイズを合わせ、ロゴを半透明にして角度を左に5度ほど傾けると、ふたつのイメージは9割方合致する。
写真を撮影したのは、レイカーズとNHLロサンゼルス・キングスのオフィシャル・フォトグラファーを40年に渡って務めた、故ウェン・ロバーツ。シーゲルはロバーツが撮ったウエストの写真を元に、あるインタビューでは8~10種類、ほかでは40~50種類ほどのバリエーションのロゴを作ったと説明している。

完成したロゴを見たケネディは、即断で採用の決定を下す。それから半世紀の間、“NBA”の書体以外は一切手を加えられることなく、現在も使われ続けている。(後編に続く)

文●大井成義
※『ダンクシュート』2021年10月号掲載原稿に加筆・修正。

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