衆院議長の私邸にまで届いた“札束の山”…そこから与野党への分配が慣行に【平野貞夫が見た政界の裏金と機密費】

元参院議員の平野貞夫氏(C)日刊ゲンダイ

【私が見た政界の裏金と機密費】前編

衆院事務局33年、参院議員12年と、半世紀近く政治のど真ん中にいた。宮沢喜一首相から「永田町のナマズ」と、皮肉なニックネームをつけられたこともある。不名誉の言い訳に私が衆院事務局時代、内閣機密費に「仕事」として関わったことを話しておく。

多くの人たちは、昔から内閣機密費が大量に政党や政治家に流れて、政治を動かしてきたと思っている。内閣機密費がそうなったのは、昭和41年ごろからだった。理由は米・ソ冷戦下で、本来の機密費の役割である安全保障のための対外情報の収集や対応は、米国がやっていたからだ。

佐藤栄作内閣が「戦後政治の終局」ということで、韓国との国交回復対策に韓国の政界・財界・マスコミに巨額の費用を使った。予算がなく政府が銀行から借金をした。昭和40年だった。借金の返済や対外対策に昭和41年度予算で、内閣と外務機密費を大幅に増大した。それまで自民党政権の国会対策の経費は、政権派閥の裏金が主流だった。

その時、私は園田直衆院副議長(自民)の秘書で、園田副議長のところに佐藤内閣から届く個人的機密費を管理していた。昭和42年11月に園田氏は厚生大臣に就任して、私は事務局に復帰した。

500万円の内閣機密費を「恒例のものです」

そして6年たって前尾繁三郎衆院議長秘書になる。昭和48年5月だった。7月中旬、田中角栄内閣の二階堂進官房長官が、前尾議長私邸に「500万円」の内閣機密費を持参した。「恒例のものです」と置いて帰った。前尾議長は二階堂官房長官が玄関を出るなり、100万円ずつ白い封筒に入れた紙袋を廊下に放り出し、私に「こんなことをするから、日本に民主政治が育たないんだ!」と怒って、私に処分しろと命令する。困った私は、100万円が入った封筒を拾い集め紙袋に入れ、国会に持ち帰り知野虎雄事務総長に相談した。

知野事務総長は「4、5年前から、そんなことが始まっているようだ。前尾議長ならそう言うだろう。君が与野党の理事に丁重に渡しておくことで処理しては」とアドバイスをしてくれた。私は、野党第2党になって厳しく自社55年体制を批判していた共産党を除き、自・公・民の理事に届けたところ、公明は受け取らなかったので、品物に代えて三越本店から「お中元」を送った。

残余のカネは議運委員長に渡した。園田副議長時代は個人として処理をされたものが、慣行となっていたことに驚き、内閣と国会の関係がこれでよいのかと心配になった。

昭和51年12月の任期満了まで、中元と歳暮の時期に8回配分した。2年目から公明党が受け取るようになった。社会党の理事の中には、時期になると「平野君まだか」と声をかける者もいた。この慣行が現在もつづいているか、別の形となっているかは知らない。(後編につづく)

(平野貞夫/元参院議員)

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