【特集】60年前の新潟地震で粟島に起きた〝隆起〟住民たちが語る記憶と今【新潟・粟島浦村】

新潟地震から60年 粟島の隆起

60年前におきた新潟地震の震源に最も近い粟島。岩場は、強烈な揺れで地盤が隆起しました。
能登半島地震でも見られた隆起。その時何が起きていたのか、住民たちを取材しました。

1964年、新潟を襲った大地震。信濃川を遡上した津波の影響などで家屋への浸水は、1万5000棟あまりにのぼりました。さらに、液状化の被害が拡大、鉄筋コンクリートのアパートが倒壊するなど甚大な被害を受け、新潟地震が液状化現象を研究するきっかけにもなりました。

死者13名を出した未曽有の大災害。震源は、粟島の南方沖40km。粟島浦村は、震源に最も近い場所でした。
■渡辺義雄さん
「立って歩くのが大人でも無理なくらいどこかに捕まっていないと倒れそうな揺れ方でした。」

当時、漁師として働いていた渡辺義雄さん・91歳。新潟地震が発生した時、島の北東部にある内浦地区の港の近くにいました。最初にとった行動は…
■渡辺義雄さん
「弟が中学生だったので(心配で)学校に行った。中学生たちがうろたえていたからこっちに来い、山に逃げようと言ったらみんながついて来た。」

渡辺さんは、中学生を先導して高台の竹藪に避難させました。
■渡辺義雄さん
「小さい頃から地震があったら地割れがおきるので、竹藪に逃げた方がいいと昔の人から聞いていた。」

渡辺さんの引率で避難した当時中3の本保友明さん。竹藪では、地割れよりも津波を心配する声が上がっていたと言います。
■本保友明さん
「この辺から(竹藪に)行った。ちょうど海岸が見える場所があって、今まで海だった場所に赤々と海藻や貝が見えていた、潮の引いた状態を見るとかなり大きい(津波が)来るぞ。」

本保さんが目にしたのは、むき出しになった海の底。住民たちは潮が引いた状態だと思っていましたが、実はこれこそが隆起の跡でした。
■本保友明さん
(Q.隆起を知ったのはいつ?)
「(避難中に)ラジオ放送で「隆起したらしい」と言った大人が「粟島が浮いた」と言った。(海岸は)このままなんだなと思った。」

岩の白い部分は、地震の前まで海に沈んでいました。60年前、粟島は島全体が1.5mほど隆起したと見られています。地盤の隆起は、地震で起こる断層のズレが要因です。震源が陸に近い場合に起きやすいとされていて、元日の能登半島地震でも起きていました。石川県の輪島市や珠洲市の沿岸で最大4mの隆起が確認されています。
■本保友明さん
「子ども心に、島が浮くなんて考えられない。」

粟島の南西にある釜谷地区。60年前、海岸で隆起を目の当たりにした人がいます。
■松浦数子さん
「本当に自然は怖いものだと思った。」

民宿を営む松浦数子さん・94歳。新潟地震が発生した時、船で来る客を迎えるため桟橋にいました。
■松浦数子さん
「海の底が見えた。今まで海の中だったのが丘になったんだもん。自然とジワジワと水が引いていった。」

地震で釜谷地区の海岸線は、大きく変わりました。海の底だったゴツゴツとした岩肌が露わになり、海藻や貝・生きた魚が打ち上げられていたそうです。
■松浦数子さん
「(地震直後は)どんな津波が来るかと思って、民宿の客に丘にあがってと言ったが言うこと聞かなった。魚を拾いに海岸に下りて行った、怖くないって言って。」

■松浦数子さん
「この辺から海だったよ。」
隆起した場所は、その後、埋め立てられ港や宅地となりました。たった一度の大地震が島の姿を変えてしまったのです。

産業にも、大きな影響がありました。漁師の渡辺さんが証言します。
■渡辺義雄さん
「それまでタイが採れていたのにピタッと採れなくなった。」

粟島では、明治期から大謀網と呼ばれる大型の定置網漁が盛んで、新潟地震の前は一網で56tものタイが水揚げされたという記録があります。しかし、新潟地震の後は、不漁に悩まされました。
■渡辺義雄さん
「(地震の後)10年くらいは思うように仕事ができなかった。かなりの損害があった。」

さらに、農地でも。
■本保友明さん
「(地震の影響で)田んぼに注ぐ用水路に水が来なくなった。やむなく田んぼを畑にした。」

現在、粟島に田んぼはありません。
震源に最も近いこの島には、新潟地震の記憶が確かに刻まれています。

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