医療者のことばの持つ力 【第2回】いつもの味に帰ってきたと実感。実家で父、母、兄と一緒に食卓を囲み舌鼓

足音を立てずやってきた病い

高速に乗ると、山並みが初夏を思わせるように青々としていた。窓を少し開けると、初夏のさわやかな風が車内に入ってきた。高速を降り一般道を走らせていると、見覚えのないお店や建物が並んでいた。

“前にこんな建物あったかな”と心の中で考えるが、そもそも、前回はいつ帰ったのかすら思い出せずにいた。

ニュースで新型コロナウイルスの第5波がようやく下火になってきたという速報が流れていた。私の職場でも、コロナ感染者用病棟を設置していたが、感染者数の減少に伴い、一部、一般病床に切り替えていた。

このタイミングを逃すと実家に帰ることができないと考え車を走らせた。一般道を少し走ると実家まで車1台がやっと通ることができる細い道が続いており、ゆっくり車を走らせた。

幼少期に遊んだ田んぼは埋め立てられ、住宅地に変わっているのが目に入った。母と一緒に夕飯の買い物に行ったお店も、シャッターが下りていた。

兄たちと一緒に基地を作った川べりもコンクリートで舗装されており、虫取り網を持って簡単に入れる場所ではなくなっていた。幼少期の記憶との風景を重ね合わせながら、時間の流れを感じていた。

実家近くのお寺の駐車場に車を駐め、実家まで数十メートルの道を妻と歩いた。このお寺は夏休みにラジオ体操や蝉取りをした遊び場所であった。

実家の駐車場には、兄の車と、兄が実家の農業を手伝うために購入したと言っていた青色の軽トラが駐まっていた。ただその代わりに、父がいつも乗っていた乗用車と軽トラは姿を消していた。

勝手口の扉を開けて、「ただいま」と言って入っていくと、いつもの作業着を着た母が出迎えてくれた。黒髪であった母の髪の毛は、白髪が目立つようになっており、顔は初夏だというのにもう真っ黒く日焼けをしていた。

妻が手土産を母に手渡し、何やら話をしている間に、僕はリビングに行った。そこでは、父が椅子に座っていた。

「おう、帰ったか。久しぶりやな」と片手を上げて僕の方を見て言った。声は元気であるが、体はずいぶん小さくなっており、足も細くなった姿が目に入った。

“痩せたなあ”と思っていると、「順也、久しぶり」と言って、兄が2階から下りてきた。兄は相変わらず元気そうであった。妻とお墓参りをしてから家に戻ると、お昼ご飯が食卓に並んでいた。

母が、「ごちそうじゃないけど、どうぞ」と妻に言うと、父も兄も台所に集まり、食卓をみんなで囲んだ。

テーブルには揚げ物やポテトサラダ、大根と人参の煮物、それにきゅうりの酢の物が並んでいた。僕は酢の物に箸を伸ばし、口に運んだ。

母の酢の物は甘めの味付けであり、思わず、「やなあ」と独り言のように言った。

口の中に懐かしい母の味を感じながら、父と母、兄がいつものようにお昼ご飯を食べている様子を見渡しながら、“実家に帰ってきたんだ”としみじみ感じていた。

僕は、専業農家の次男として生まれた。産まれた時は未熟児であり、保育器に入っていたらしい。退院してからも、お乳を飲んでは吐き出してしまい、なかなか大きくならずに、両親を心配させたという。

僕の2つ上の兄は、僕が産まれてしばらくしてから、病院の検査で尿たんぱくが出ていることがわかった。

僕が産まれたのは小さな病院で、今みたいなスクリーニング検査などは行われなかった。ただ、僕の母は医療者ではないが、僕が産まれてしばらくして“ひょっとしたら、下の子も……”と感じ、近所の薬局に行き検査薬を購入し、僕のおしっこを調べたらしい。

すると、尿たんぱくの部分に縦線が1本入った。母は次の日、近くの小児科に行き相談した。すると、その小児科の先生は、「お母さん、心配ありませんよ。こういうこと(尿たんぱくが出ること)は子どもの時期にはよくありますからね、大丈夫です」と言った。

“大きな病気じゃないんだ”と母は安心したと言っていた。ただ、経過観察のために通院だけはしていたが、お薬を飲んだり、食事療法はしなくてよかった。


※本記事は、2023年9月刊行の書籍『医療者のことばの持つ力』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。

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