野球解説者・岩本勉「ファーストベースからライトポールまで、殴られ続けて…」少年時代の昭和過ぎる熱血エピソードと親の愛を知ったハートフルな出来事

岩本勉 撮影/小川伸晃

1990年にドラフト2位で日本ハムファイターズ(現北海道日本ハムファイターズ)に投手として入団し、チームのエースとして活躍してきた岩本勉。現在は、野球解説者・スポーツコメンテーターとしてテレビ、ラジオを中心に幅広く活動している彼の「THE CHANGE」とはーー。【第1回/全2回】

今僕を支えてくれている野球ですが、始めたきっかけはドラマチックでした。

小学校1年生になる頃に、家の中で、紙を丸めて、ドタバタと野球のまねごとをしたり、テレビで熱心に阪神タイガースの応援をしていました。

そんな僕を見かねて、母親は少し大きめのスーパーのスポーツ用品コーナーにグローブを買いに連れて行ってくれたんです。

そこで僕は、子供用のものではなく、ちょっと大きいお兄ちゃん用のグローブが目についたんです。値段は子供用のものの倍はしていました。でも、うちは貧乏だったので、「これが欲しいとは言われへんな……」と肩を落としていました。そんな僕の肩を母親がポンポンって叩いて、「あんた、これ欲しいんやろ」って、欲しかったグローブを買ってくれたんです。そのときに、僕は絶対にプロ野球選手になろうと、堅く決意をしました。そして両親にも、「プロ野球選手に必ずなるから」と宣言して、リトルリーグに入ることになりました。

小学生の頃から、めちゃくちゃ負けん気だけはありましたから、負けるようなことがあれば、勝つまで練習するタイプの子供でしたね。これは父親のしつけで、すり込まれたものだったと思います。

ある寒い日に野球の練習に行くのが嫌で、寝ていたら、親父が部屋に入ってきて、ボコボコにやられました(笑)。「プロ野球選手になるんとちゃうんか!」って。あまりに親父が本気なんで、「このまま死ぬんだ……」って、子供ながらに思いましたよ(笑)。

親父は結果だけにこだわっていたわけではありません

あと、試合に負けた日は、親父の命令で夜に家の隣の高校のグラウンドで走らされました。警備の方に、「君、何をやっているんだ!」って注意をされたので、「ランニングさせてください」ってお願いをしました。「いいけど、もう遅いから帰りなさい」と言われたんですが、「僕、ここでランニングをやめると、お父ちゃんにしばかれるんです!」って説明をしました。すると、警備の方は、「分かった! おじちゃんが見といてやるから走っとき!」って励ましてくれましたね。

今では絶対にダメな話ですけどね。ただ、親父は結果だけにこだわっていたわけではありません。

リトルリーグで紅白戦をしたとき、僕は上級生にデッドボールを当てられました。ヒットを打ちたかったし、上級生にもなめられたくなかったので、ファーストベース上で「痛くないわい!」って地面を蹴ったんです。その姿が親父には、ピッチャーを威嚇しているように見えたんですね。

紅白戦中のグラウンドに親父が鬼の形相で入ってきて、僕に向かってバッコーンって(笑)。僕はファーストベースからライトポールまで、殴られ続けて、サンドバック状態です。ユニホームは破れるし、最後はパンツ一丁になってしまい、垣根に放り込まれました。殴られる中で、自分のやってしまったことはもちろん反省していたのですが、パッと顔を上げてみたら、親父は僕よりも悔しそうな顔で泣いていたんですよ。

親父は「プロ野球選手になるんだ」と宣言していた僕を一生懸命サポートしてくれていたんですが、一番大切なことを伝えられていなかったと悔しかったようなんです。

僕は小学生ながらに、親父の本気を見たように感じましたし、そこから、「スポーツマンシップとは何か」を考えるようになりました。

岩本勉(いわもと・つとむ)
1971年5月11日生まれ、大阪府出身。大阪・阪南大高から90年にドラフト2位で日本ハムファイターズ(現北海道日本ハムファイターズ)に入団。ポジションは投手。背番号は18。98年から2年連続2ケタ勝利を挙げ人気、実力ともにチームのエースとして活躍。通称“ガンちゃん”としてファンから愛された。
ヒーローインタビューでは「まいどっ!」のあいさつでファンを沸かせた。 05年シーズンいっぱいでファイターズを退団。現在は、野球解説者・スポーツコメンテーターとしてテレビ、ラジオを中心に幅広く活動中。

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