ルーツは“お菓子”だった!? 意外と知らない「そうめん」の歴史 播州手延べそうめんの資料館に聞く

播州手延べそうめん 揖保乃糸(写真提供:揖保乃糸資料館「そうめんの里」)

まだ6月ながら全国で真夏日が続出し、猛暑となることが予想される今夏。こんな暑い時期に食べたくなるものといえば、「そうめん(素麺)」を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。

【写真】形が全然違う 現在のそうめんの元となった古代の「唐菓子」

つるっとしたのどごしが特長の、日本の夏の食卓に欠かせない食材ですが、意外に知らないのがその歴史。今回は“そうめんの歴史”に迫ります。兵庫県たつの市にある揖保乃糸資料館「そうめんの里」の藤木裕子さんに話を聞きました。

そうめんの歴史は古代にまでさかのぼります。奈良時代に中国から伝わった「索餅(さくべい)」がそうめんの原型だったと言われています。

「『索餅』は唐菓子(からがし)と呼ばれる菓子類の一つで、当時はとても高価で珍しいものでした。誰もが口にできるわけではなく、特別な行事の際に貴族が宮中で食べていたようです」(藤木さん)

そして中世になると、今に通じるそうめん作りの手法が中国から伝わってきます。それでも大きな寺の位の高い僧侶など、特別な人しか口にすることはできず、まだ庶民が気軽に食べられるものではなかったのだそう。

江戸時代に入り、そうめんはようやく庶民のものとなります。その頃には、揖保乃糸のふるさとでもある現在の兵庫県の播州(播磨地域)でもそうめんを作る農家が増え、品質管理が必要なほどまでになりました。それでも、当時は特別なごちそうとされていたようです。

そのような歴史を経て、そうめんは庶民の生活になじみ、やがて夏の定番食材になっていったのです。

古来から七夕の行事に欠かせないとされ、行事食としても親しまれてきたそうめん。七夕に食べると病気にならないという言い伝えもあるのだとか。1982(昭和57)年には、全国乾麺協同組合連合会がそうめんの伝統や文化を後世に残していこうと、7月7日を「七夕・そうめんの日」に制定。そうめんのさらなる普及を図っています。

「そうめんの里」があるたつの市をはじめとする播州には、室町時代から続く約600年のそうめんづくりの歴史があります。揖保郡太子町の斑鳩寺に伝わる日記『鵤庄引付』の1418(応永25)年の条に「サウメン」の文字が記されているのが、兵庫県最古のそうめんの記録です。

明治に入って生産体制が充実すると、品質の統一化が図られ、1887(明治20)年には「播磨国揖東西両郡素麺営業組合」(現在の兵庫県手延素麺協同組合の前身)が設立されました。その7年後に「揖保乃糸」の商標が誕生。製造者が責任をもって製品を送り出す仕組みが整えられ、揖保乃糸は今や生産量日本一を誇る名産品となりました。

揖保川のきれいな水、播州平野で採れる質のいい小麦、全国的に有名な赤穂の塩といった、手延べそうめんに欠かせない良質な材料に恵まれただけでなく、勤勉な農家の労働力もあって、播州は日本有数のそうめん産地となったのです。

「そうめんの里」では、歴史に加え、脈々と受け継がれてきた揖保乃糸の伝統の技も紹介。併せて、そうめん流しなどのさまざまな食べ方で揖保乃糸を食する機会が提供されています。

この夏、日本を代表する手延べそうめんの産地・たつのでそうめんについて学び、味わうと、そうめんがひと味違って感じられるかもしれません。

【参考】「揖保乃糸」「全国乾麺協同組合連合会」各公式サイト

(取材・文=洲崎春花)

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