妊娠22週で493gの赤ちゃんを緊急出産。夫以外のだれにも「赤ちゃんが生まれた」と言えなかった【体験談】

生後1カ月を少し過ぎたころの奏明くん。看護師さんの手作りのかぶととこいのぼりで初節句をお祝いしました。

栃木県に住む小林恵さんは、夫、長男の奏明(かなめ)くん(6歳)との3人家族です。奏明くんは2018年3月、恵さんが妊娠22週のときに、体重493gで誕生しました。現在は栃木県のリトルベビーサークル「にちにちらんらん」の代表として活動する恵さんに、壮絶な出産のときのこと、産後の気持ちなどについて話を聞きました。全2回のインタビューの1回目です。

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仕事帰りの妊婦健診で「母子ともに危険な状態」と言われ・・・

初めての妊娠がわかってから、おなかの張りやむくみなどの自覚症状はなく、体調も良好だった恵さんは、産休の時期までフルタイム勤務を続けようと思っていました。ところが仕事帰りに行った妊娠22週の妊婦健診で、突然の事態に見舞われます。

「妊婦健診に通っていた大学病院でいつもどおりの診察、と思っていたら、なにやら看護師さんたちがバタバタし始め、個室のような診察室に移動になりました。『なんだろう?もしかして、長期の管理入院とかなのかな・・・』と想像しながら待っていると、医師から『妊娠高血圧症候群で、母体も赤ちゃんも危険な状態です。すぐに出産になります』と言われました。『えっ、すぐに出産!?』突然のことに驚きすぎて、思考がフリーズしている感じでした。なんの自覚もなかったのに、まさか出産なんて・・・。仕事帰りで、バッグにはスマホとお財布と母子健康手帳が入っているだけで何の準備もないままに入院することになりました」(恵さん)

恵さんは、すぐに夫を呼び出すように言われ、病院にかけつけた夫と2人で、医師の説明を受けました。

「医師からは『すぐに出産をしないと赤ちゃんも母体も危険です。母体を優先するので、赤ちゃんは助からないと思ってください』と言われました。『帝王切開をして赤ちゃんを取り上げたら、顔だけ見てさよならになるかもしれないから、よく見てください』とも。奇跡的に助かったとしても障害が残り、歩くことはできないだろう、という説明でした。

私たち夫婦は、ただ医師の言うことに『はい、はい』と返事をするのが精いっぱい。受け入れることも理解することもできませんでした。赤ちゃんが小さく生まれたらどうなるのかも知らないし、何のイメージもできません。私は体力にも自信があったし、風邪もほとんどひかない健康体だったんです。だからまさか自分の身にこんなことが起こるとは、信じられませんでした。

医師から次々に説明される医療用語を聞きながら『私はとんでもないことをしてしまったんだな』と、心が真っ暗な雲に覆われるようでした。自分の身に起こったことなのにどうすることも、泣くことすらもできませんでした」(恵さん)

493gで生まれた小さな、小さな男の子

まだ皮膚もしっかりできていないころの奏明くんの足。医療用モニターがつけられています。

2018年3月末、入院した翌日に恵さんは帝王切開で男の子を出産します。予定日は7月だったので、4カ月も早い出産でした。

「私が手術室にいる間、夫はずっと泣きっぱなしで師長さんになぐさめてもらっていたらしいです。夫は私と赤ちゃん、2人のことをすごく心配してくれていたんだと思います。担当してくれた医師は、私のおなかの縫合が終わったときに『おめでとうございます』と言葉をかけてくれました。突然の出産でしたが、そう言ってもらえたのはうれしかったです。

生まれた赤ちゃんは男の子でした。顔を見せてもらったら、すぐに保育器に入れられてNICU(新生児集中治療室)へ運ばれていきました。手術室の外の廊下で待っていた夫は、赤ちゃんがNICUへ移動するときに会うことができたそうです。あとで聞いたら『ちっちゃかったし、赤かった』と言っていました。赤ちゃんの体重は493g、身長は29.5cmでした」(恵さん)

出産後しばらくの間、恵さんは高血圧と、体調の悪い状態が続きました。

「なかなか起き上がることもできなかったので、私が搾乳した母乳を看護師さんがNICUに届けてくれたり、看護師さんが赤ちゃんの写真を撮って私の病室に届けてくれたりしていました。やっとNICUの赤ちゃんに会えたのは産後5日ごろだったと思います。めまいでクラクラしながら、車椅子で連れて行ってもらい5~10分ほど面会しました。

保育器の中にいたのは、モニターや人工呼吸器がつけられた状態で、ガーゼにくるまれた小さな小さな赤ちゃんでした。生まれたときからさらに少し体重が減ったようで、想像以上の小ささ。保育器がすごく大きく感じるくらいです。やっと会えたわが子はやっぱりかわいいな、と思いました」(恵さん)

恵さん夫婦は、お互いの名前から1文字ずつをとって組み合わせ、赤ちゃんに「奏明(かなめ)」くんと名づけました。

赤ちゃんが生まれたことをだれにも話せなかった

初めて保育器内で奏明くんを抱っこできたとき。

予定より4カ月早い出産となったことを、恵さんは夫以外のだれにも話せませんでした。

「赤ちゃんを早産したことは、両親たちにも友人にも、だれにも言わずにいました。それは、赤ちゃんが生きられないかもしれない、と言われていたからです。そこまでを含めて話すなんてことできません・・・。職場には『体調不良でしばらく休みます』とだけ伝えました。

私の実家も夫の実家も、親せきや近所づき合いが密なタイプで、子どもが生まれたとなるとすぐに情報が広まり、だれに連絡するか、内祝いをどうするか、といったことが話題になります。赤ちゃんの命がどうなるかわからない段階で、そんなことまでとても考えられないと思いました。双方の両親に出産を伝えたのは生後3週間くらいたってからでした。

私も精神的にとても参ってしまっていたので、だれとも連絡を取りたくない気持ちが強かったのかもしれません。私は産後10日くらいで退院して、その後は面会に行く日々が始まりました。奏明は依然としてNICUに入院中・・・。奏明の健康状態が少し悪くなったりすると、面会時間外でも、深夜でも病院から連絡が来るんです。その電話には必ず出たかったので、携帯電話での着信音の設定は病院の電話番号だけにして、ほかの番号は音が出ない設定にしていました」(恵さん)

毎日NICUで6時間を過ごし、わが子を見つめるだけだった日々

生後5カ月の奏明くんと恵さん。

恵さんの自宅から奏明くんがいる病院までは片道1時間ほどの距離。恵さんは体調が回復してからは毎日NICUへ通い、そこで6時間を過ごす日々が続きました。

「生後間もないころは、面会に行ってもすることがないんです。まだ皮膚も未熟なために触れることもかないませんでした。大きな保育器の中にいるわが子を、ただ見つめるだけの時間を過ごしていました。

この子のために私にできることは母乳をあげることだと思い、なんとか母乳がたくさん出るようにいろんなことをしました。母乳分泌にいいといわれるものを飲んだり食べたりして、昼夜かかわらず3時間おきに搾乳をして冷凍して、それを毎日NICUに届ける日々です。それでも、小さな奏明が母乳を飲む量は1回にたった5mLほどです。それを1日8回飲むとしても40mLほど。

だから母乳がよく出るようになって病院に届けても、『しばらく母乳は持ってこなくて大丈夫』と言われてしまっていました。家の冷凍庫は母乳のパックでいっぱいに・・・。だけど、搾乳しなければ母乳が出なくなるし、乳腺炎などのトラブルにもなるので、搾乳しては捨てていました」(恵さん)

不安ばかりの心が救われた、おなじ境遇のママたちとの出会い

100日祝いに、恵さんはおもちゃの鯛を用意しました。

奏明くんがNICUに入院していた当時を振り返ると、恵さんは「感情の起伏が激しい時期だった」と言います。

「NICUへ面会に行き看護師さんに奏明の体調を聞いたときに『今日はちょっとお熱があります』『今日は血糖値が上がってしまいました』と、よくない状態のことを聞くとひどく落ち込んでいました。でも、体重がほんの少しでも増えたと聞いたり、保育器の奏明に触れられたり、というときには、喜びいっぱいの気持ちになります。

奏明の状態によって私のメンタルも上がったり下がったり。少しずつの成長は喜びでしたが、やっぱりNICUに入院している間は『いつどうなるかわからない』と不安な気持ちが大きかったんです」(恵さん)

恵さんは奏明くんとの長時間の面会の途中に、院内の搾乳室を利用して搾乳をしていました。そこでほかのママと出会ったことが、不安定だった心の大きな支えとなったそうです。

「コロナ禍を経て搾乳室が廃止になってしまった病院もあるようですが、当時はコロナ前で搾乳室があったんです。そこが、赤ちゃんがNICUに入院しているママたちの出会いの場になっていました。『何週で生まれたの?』『何グラムだったんですよ』なんておしゃべりをして仲よくなり、連絡先を交換しました。自分とおなじ境遇の人の存在はとても大きいものです。

NICUの面会時間は12時半からだったので、その少し前に集まってランチをしてからみんなで面会に行ったり、だれかが退院したらみんなでパーティをしたり。そんなママたちとのつながりで、心がすごく救われました」(恵さん)

ともに子どもの成長を喜んでくれる存在

奏明くんが生後3カ月のとき、パパも初めて保育器内で抱っこできました。

小さく生まれたために体の機能が未熟だった奏明くんは、入院中に未熟児網膜症や、慢性肺疾患、未熟児貧血、くる病、尿路感染症など、さまざまな病気にかかりました。それでも、体重の増減を繰り返しながら、奏明くんは少しずつ大きくなっていきました。

「生後45日目で、初めて保育器内で奏明を抱っこすることができました。抱っこといっても、保育器に入れた私の両手に、看護師さんが布にくるまれた赤ちゃんをのせてくれる感じです。まだ肌には触れられませんでしたが、それでも、わが子をこの手に抱くことができて幸せでした」(恵さん)

恵さんは、NICUの看護師さんたちが奏明くんの成長を一緒に喜んでくれることも励みになったと言います。

「初節句では、看護師さんがかぶととこいのぼりを作ってくれて、写真に撮ってくれました。100日のお食い初めのお祝いをしたくて看護師長さんに相談したときには、感染予防のためにNICUに持ち込んでいいものが限られているなか、『プラスチックや木製のおままごとセットの魚ならいいですよ』と許可してくれて、お祝いすることができました。

奏明の少しずつの成長を、こうして看護師さんたちが一緒になってお祝いしてくれることがすごくうれしかったです。『奏明とこんなことをしたい』という私の希望に応えようとしてくれることも、メンタルがぼろぼろだった私にとって、すごく心強く感じました」(恵さん)

奏明くんは、生後6カ月をNICUとGCU(回復治療室)で過ごし、ようやく退院できることになりました。恵さんは、出産前にフルタイムで勤務していた仕事をやめ、奏明くんの命に向き合う生活が始まりました。

お話・写真提供/小林恵さん 取材協力/板東あけみさん 取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部

取材では涙を浮かべながらも、出産当時の状況を明るく冗談交じりに話してくれた恵さん。その明るさに、わが子の命の不安に向き合い、乗り越えてきた強さを感じました。次回の内容は奏明くんの成長の様子やリトルベビーサークルについてです。

「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年5月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。

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