注目を集める都知事選。小池百合子氏が得意とする“仕掛け”は今回も通じるのか?

東京都の小池百合子知事は、14日の定例会見で都知事3選を目指して出馬表明した。蓮舫氏が立候補を表明してから、7月7日の選挙に向けて早くも舌戦が繰り広げられている。2016年の選挙では、無党派層から300万票近い支持を集め、情報戦に強いイメージがある小池都知事について、当時をよく知るウェブ編集者の新田哲史氏が分析した。

※本記事は2016年刊、新田哲史:著『蓮舫VS小池百合子、どうしてこんなに差がついた? -初の女性首相候補、ネット世論で分かれた明暗- 』(ワニブックスPLUS新書)より一部を抜粋編集したものです。

蓮舫VS小池百合子、どうしてこんなに差がついた?<前編> 蓮舫氏の二重国籍疑惑問題。すべては2016年の東京都知事選から始まった

「ポスト舛添」が争われた2016年の都知事選

2016年7月6日、私は41歳の誕生日の朝を都心の産院で迎えていた。個室での入院だったため、家族が一人だけ泊まり込むことが許されている。私は第一子の出産を無事に終えた妻に付き添っていた。目を覚ました直後、私のiPhoneにSNSのメッセージが入っていたのに気づいた。

「誕生日おめでとうございます。新田さん、電話をいただけますか?」

懇意にしている国会議員だ。電話を掛け直す前に、私は用件を察した。これは、その翌週に告示を控えていた東京都知事選挙のことに違いない、と。

そして、その日から私は、初めての子育てをしながら傍観者として見守るはずだった首都決戦の当事者となる。ネット時代に劇場化した都知事選において、壮絶な様を目撃することになるプロローグに過ぎなかった。

……と、思わせぶりに書いてみたが、「当事者」といっても、とある陣営の選挙準備のごく一端をお手伝いしたに過ぎない。ただ、準備を終えたあとも、本業の空き時間にボランティアとして事務所に何度か出入りはしていたので、厳密には第三者ではない。

準備期間のNDA(秘密保持契約)があるので、詳細は申し上げられない。アゴラの業務とは完全に切り離し、ステークホルダー間の合意は取っての関係性である(私は選挙期間中、特定の陣営を応援する記事は書いていない)。

さて、都知事選に至る政界の動きを振り返ろう。

舛添要一氏が6月15日、政治資金を巡るスキャンダルにより、任期途中で都知事の座を辞する意向を表明し、21日に正式に辞職。都知事選が参院選直後の7月14日告示、31日投開票という日程が決まり、政界やメディアでは「ポスト舛添」が誰になるのか、さまざまな候補者の名前が上がった。

当初、本命視されたのは「櫻井パパ」こと、嵐の櫻井翔氏の父、桜井俊総務事務次官。折しも任期満了による退官の時期が重なったが、本人は記者会見で出馬を否定し、結局出馬することはなかった。一方の野党サイドは、民進党で蓮舫氏の都知事転身に期待する声が浮上。

このことが、二重国籍疑惑の「端緒」になったことは周知の通りだが、国政に残ることを表明し、こちらも不出馬となった。

蓮舫氏の不出馬会見から11日後の6月29日、「本命」候補が次々に消え、参院選に突入した最中、自民党の小池百合子衆議院議員が突然、都知事選出馬の意向を表明する。蓮舫氏の不出馬会見から11日後の6月29日だった。

都知事選の前から驚嘆させられた小池氏の演出力

「崖から飛び降りる」という決意の文句は、マスコミの話題をさらい、環境相時代の「クールビズ」を思わせるキャッチコピー能力の健在ぶりを感じさせたが、この出馬表明が寝耳に水だった自民党東京都連は反発する。

小池氏は7月6日に正式に出馬表明し、1.都議会の冒頭解散。2.都政の利権追及チームの設立。3.舛添問題の第三者委員会設置という3つの公約を掲げる。

都議会の冒頭解散は、都議会の不信任決議があってから知事が判断する話なので現実味がなく、準備に粗さがあったのは否めなかったが、自民党都連の怒りは頂点に達し、対決機運を盛り上げ、都知事選を劇場化する効果は十二分だった。

桜井氏の出馬が消えた自民党都連は、元総務大臣で、前岩手県知事の増田寛也氏に打診。小池氏の「崖から飛び降りる」に対抗し、増田氏が出馬について「スカイツリーから飛び降りるくらいの覚悟が必要」と報道陣に心境を語ったことが、当時のテレビでは面白く取り上げられた。自民党は久々に都知事選を分裂選挙で迎えることになった。

一方の野党サイドも、民進党都連が元経産官僚の古賀茂明氏の擁立に動いたり、市民グループが後押しする宇都宮健児氏が出馬をギリギリまで模索するなど紆余曲折あったが、結局、民進党と共産党などが鳥越俊太郎氏を野党統一候補として擁立。参院選終盤の頃には、首都決戦の構図が、小池・増田・鳥越の3氏を軸に展開することが固まりつつあった。

水面下で都知事選の準備をしていた私だが、その頃の見立てとしては、小池氏が対決機運を盛り上げようとして目立っていたものの、政党の後ろ盾が無く、彼女が狙っている無党派層の受け皿となれるかどうか、まだ計りかねていた。

「小池氏は女性に人気が無い」という評価が以前から政界でささやかれており、都知事選当選ラインの200万票を、彼女が組織ゼロから掘り起こせるのか半信半疑だった。

だが、7月14日の告示を待たずして、小池氏のPR巧者ぶりを見せつけられる瞬間がやってくる。

7月10日午後8時過ぎ。参院選の投票が終わった直後だった。

自民党本部の玄関口のフロアは、人の出入りをチェック中の報道陣ですでにごった返している。そこに小池氏が突然現れ、党本部1階の都連事務局を訪れたのだ。

たちまち取り囲んできた報道陣に「推薦取り下げをお願いした」と小池氏。この時点で、都連の擁立する増田氏は正式に出馬表明をしていないが、「これからの戦いで推薦をちょうだいするのは、なかなか難しい」と、その理由を語った(出典:産経ニュース7月10日)。

私が舌を巻いたのは、この登場の仕方だ。

「推薦の取り下げ」は、一般社会の通念でみれば、なんの変哲もないキャンセル行為だが、政党は意中の候補者にしか推薦を出さないわけで、わざわざ、取り下げのために都連事務局を訪れる必要はない。これはテレビの前に自分をさらし、都連とのたもとを分かつ自分の決意を都民に示すための「画(え )作り」にしか見えなかった。

組織の後ろ盾がない小池氏にとって、露出機会を増やす狙いもあったろう。キャスター出身で、テレビの特性を熟知した小池氏ならではの発想とパフォーマンスに「そこまでやるか」という凄みを覚えた。

「小池百合子を中心にものすごい空中戦が繰り広げられていく」。知人の参院選候補者の事務所のテレビで、自民党本部の様子を見ながら私は予感した。だが、そのあとに目撃することになるメディア選挙の様相は、都知事選の歴史を研究してきた私にとっても、かつて見たことのないものになる。

「女性に人気がない」政界ではささやかれていた

都知事選前半の報道機関の情勢調査では、小池百合子氏と鳥越俊太郎氏がリードし、増田寛也氏がそれを追うという構図が浮かび上がってきた。大都会・東京の有権者が対象となる選挙だから、小池・鳥越、両氏のスタートダッシュは、やはりテレビ的な知名度の大きさを物語っていた。その点、増田氏は一般的な知名度で劣るのは否めない。

想定内のことではあったものの、小池氏にとっては「グッドシナリオ」になったというのが私の印象だった。選挙が終わった夏以降、小池氏の圧倒的な存在感が確立されているので、このような話をしても信じがたいかもしれないが、小池氏は後ろ盾となる政党がいない分、基礎票が未知数であり、足元は脆弱だった。

小池氏の「バッドシナリオ」は十分考えられた。先述したように、以前から小池氏の評判に関しては「女性に人気がない」という見方が政界ではささやかれていた。また私が、自民党都連関係者に聞いただけでも「集会での人集めで協力してくれない」「2009年の総選挙で小選挙区で落選した際に秘書をクビにした」といった話がある。

実際、選挙のプロほど当初は厳しい数字を見立てていた。選挙統計も手がけている著名ブロガーの山本一郎氏は、告示の10日前時点で「投票率50%とみて有効投票全数が500万票強であるならば、一割にあたる50万票ぐらい」と見積もり、「どっちにしても勝てない」と酷評していた(7月4日、ヤフーニュース)。

つまり、投票率が史上3番目に低い46・14%に沈んだ前回2014年選挙のような展開となれば、大政党の組織力に支えられた増田氏、鳥越氏に有利になることが予想された。

ところが、蓋を開けてみれば小池氏は順調にスタートした。「グッドシナリオ」に転じた理由としては、「都知事選」というカテゴリーの報道で、露出が目立っていたことが考えられる。

ただし、露出の仕方も重要だ。鳥越氏は、選挙中盤に発売された『週刊文春』で、女性スキャンダルを報じられ、ネット上でも大炎上。

この前後、私はグーグルアナリティクスで有力3候補の名前の検索量について分析していたが、文春の報道を境に鳥越氏は際立った検索量となり、3候補で一時最多になったものの、情勢調査ではじりじりと数字を落としていった。「悪名は無名に勝る」のはある程度、真実味があるものの、当たり前のことながら度の過ぎた悪名は致命的になる。

田原総一朗氏が語った選挙で勝つための教訓

では、小池氏の露出の仕方は何が良かったのか。勝てる候補者の真髄について、ジャーナリストの田原総一朗氏から直接聞いた言葉を思い出す。

編集長就任直後の2015年12月、アゴラ主催のエネルギーシンポジウムを静岡・掛川で開催し、田原氏をゲストに招いたことがあった。それに先立ち、地元の浜岡原発を田原氏らと見学に訪れたのだが、移動中に二人きりで政治談義をする貴重な機会を得た。

田原氏の話で印象深かったのが、小泉純一郎氏が2001年、自民党総裁選に3度目の出馬をしたときのエピソード。当時、小泉氏は国民的人気の割に党内の支持に不安を抱え、すでに2度黒星を喫していた。

3連敗となれば、もう総裁、つまり内閣総理大臣になる芽はなくなる可能性が高い。「変人」の異名をとった小泉氏も、さすがに出馬するか悩んでいたという。

ある夜、小泉氏を担ごうとした中川秀直衆議院議員(当時)が田原氏に相談を持ちかけ、赤坂の料亭で懇談した。田原氏は「小泉さんが経世会と本気で喧嘩するつもりなら、面白いと思う」と助言した。

経世会は、竹下登元首相がかつて率いた自民党の一大派閥。この前年に亡くなった小渕恵三総理を輩出していた。この当時は平成研究会(平成研)の名称になっていたが、自民党内では、竹下時代からの“経世会支配”の威光がまだ強かった。

田原氏は「ケンカをするなら命懸けでやれ」とハッパをかけたわけだが、中川氏は「小泉の目の前で言ってくれ」と応じると、別室に控えていた小泉氏が現れた。

田原氏が「小泉さん、あなたは経世会と喧嘩する気があるんですか?」と尋ね、決心の程を何度も確かめると、小泉氏は「殺されても私はやる」と応じたという。その後、小泉氏は、平成研が狙った橋本龍太郎氏の再登板を封じて圧勝。長期政権を築いたのは周知の通りだ。

小泉氏とのやりとりは、田原氏の著書『人を惹きつける新しいリーダーの条件』(PHP研究所)に詳しい。田原氏が私に対し、このときの小泉氏の覚悟を引き合いに「選挙で勝つには、殺るか殺られるか、本気で戦わないとダメ」と、語っていたのが印象に残る。小泉氏がブレずに戦う姿勢が、国民の支持を得たわけだ。

それから15年。小池氏は、出馬表明時の都議会冒頭解散の公約から推薦取り下げまで、メディアや世論が注目する仕掛けをしつつ、自民党都連と戦う姿勢を一貫してアピールした。都知事選序盤の堅調な支持率は、小池氏の不安要素を一掃しつつあった。

© 株式会社ワニブックス