元日ハム・岩本勉、引退後の新たな人生に立ちはだかった壁「社会について知らないことばかりでした」

岩本勉 撮影/小川伸晃

1990年にドラフト2位で日本ハムファイターズ(現北海道日本ハムファイターズ)に投手として入団し、チームのエースとして活躍してきた岩本勉。現在は、野球解説者・スポーツコメンテーターとしてテレビ、ラジオを中心に幅広く活動している彼の「THE CHANGE」とはーー。【第2回/全2回】

「スポーツマンシップとは何か」を考えるだけではプロにはなれませんから、技術的な練習を怠りませんでした。当時は、野球が下手くそだったんですよ。ゴロは捕れないし。打つのもまったくバットに当たらないし。でも、失敗すると、かなり悔しかったから、素振りもしましたし、壁にボールを当てる練習を、めちゃくちゃやりました。

今みたいに、野球の技術に関する情報がないので、眠い目をこすりながらプロ野球ニュースを見て、「プロの選手ってどんな練習をしてるんだろう」って、かぶりついて見ていました。

当時のリトルリーグのコーチは、近所のおじさんたちなので、野球に対する知識もなくて、「ピッチャーは、とりあえず朝から晩まで走っとけ」って指導でした。

僕はそれを真に受けて、走り続けていましたね。ただ、この走っている先にプロ野球があると思っていたので、まったく苦にはならなかったです。僕は全国の同学年の中では、一番走ったという自信があります。中学のときは、朝10キロ、夜10キロ、走ってました。

振り返れば、当時はいろいろと大変だったんですけど、「絶対に、プロ野球選手になるんだ」と決めていたので、サボろうと思ったことはありますが、野球を辞めようと思ったことは1回もないですね。

そもそも、僕はプロ野球選手になれなかった未来を考えたことがなかったんですよ。「野球選手になっていなかったら、どんな仕事していたと思いますか?」って聞かれることがあるんですが、考えたことがないので、本当に分からないんです。だから、そんなときは適当に「総理大臣」とか答えています(笑)。

現役時代は、まわりが気をつかってくれるのが当たり前のように思ってしまっていた

その甲斐あってか、阪南大学高等学校から1982年のドラフト会議で日本ハムファイターズに指名され、憧れのプロ野球選手になることができました。最初は2軍暮らしで、イップスに苦しんだ時期もあるのですが、34歳まで、プロ野球選手として現役を続けることができました。

そこからまた、新たな人生が始まることになるのですが、引退をしたばかりの僕は、名刺交換、電車の乗り継ぎ、社会について知らないことばかりでした。

分からないことがあるたびに、事務所のマネージャーに教えてもらってました。野球選手を終えてからのほうが、多くのことを学ぶことになりました。

野球選手としては、1億円プレーヤーとして、まわりはチヤホヤしてくれて、年上の方でも、敬語を使ってくれて、「岩本さん、こちらへどうぞ!」って感じでした。給料もたくさんもらって、生活も派手になって、振り返ると、勝手に社会的な地位が高いと思っていたのかもしれません。そもそも、現役の頃って、自分から挨拶をすることが極端に少なくなっていたんです。

これってめちゃくちゃ恥ずかしいことですよね。挨拶をされて「まいど!」って返すことがあっても、自ら挨拶をすることが、少なくなっていました。そんな事実に気づくんです。現役時代に、まわりが気をつかってくれるのが当たり前のように思ってしまっていたことが、どんなに恥ずかしいことか。

だから現役の選手に言いたいのが、良くも悪くも必ず、自分を見てくれている人はいる。きついときにひとりかもしれないですけど、必ず周りに評価してくれる人がいる。それは横暴な態度をとっているときもそう。

周囲にいる方々を常に大切にすべきだと伝えたいですね。間違いなく、現役を終えた後でも大切なことなので。

岩本勉(いわもと・つとむ)
1971年5月11日生まれ、大阪府出身。大阪・阪南大高から90年にドラフト2位で日本ハムファイターズ(現北海道日本ハムファイターズ)に入団。ポジションは投手。背番号は18。98年から2年連続2ケタ勝利を挙げ人気、実力ともにチームのエースとして活躍。通称“ガンちゃん”としてファンから愛された。
ヒーローインタビューでは「まいどっ!」のあいさつでファンを沸かせた。 05年シーズンいっぱいでファイターズを退団。現在は、野球解説者・スポーツコメンテーターとしてテレビ、ラジオを中心に幅広く活動中。

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