好き嫌いが分かれた『DAISUKI!』。中山秀征がテレビタレントとして歩んだ40年

中山秀征、通称“ヒデちゃん”である。この人に関しては、たぶんそれ以上の説明はとくに必要ではないのかもしれない。

子どもからお年寄りまで、この顔を見れば「ああ!」となる認知ぶり。笑顔と口達者・芸達者ぶりとで、長年にわたり芸能界の第一線で活躍し、情報番組でもクイズ番組でもそつなくこなすMC……なのは確かだが、じつは人生を左右するような土壇場から小石を一つひとつ積み上げて登ってきた場所だったと知ると、多くの方は驚かれるかもしれない。

順風満帆に見えるが、実際は「修羅な道」だったと明かす、その芸能生活をニュースクランチ編集部が聞いた。

▲俺のクランチ 第58回-中山秀征-

デビューして3年で“ブレイク”と“もう古い”を体験

ヒデちゃんこと中山秀征は、群馬県藤岡市からデビューも決まっていない中学時代に上京。1984年、渡辺プロダクション(現・ワタナベエンターテインメント)に所属。会社が新たに立ち上げた「第3セクションお笑い班」の一員だった。

「僕自身は第二の吉川晃司を目指して東京に来たんですけど、たどり着いたのは“新しいお笑いを作ること”を志した部門。そこにはホンジャマカの石ちゃんとか、作家志望で三谷幸喜さんなんかがいて、そもそも僕は志してないんですけど、藁にもすがる思いだったんですね(笑)。

お笑いの“てにをは”も“いろは”もわからないところに、ニッポン放送のアナウンサーさんが来て“しゃべり”を、フジテレビの『オレたちひょうきん族』のディレクターだったゲーハー佐藤(佐藤義和)さんがネタづくりを教えに来てくれて、あとはダンスと歌とフリートークのレッスン」

合宿免許のような状況でお笑いを学び、それでも18歳になる年の春に「ABブラザーズ」としてデビュー。いきなり平日昼帯、『笑っていいとも!』の直後に放送されていた『ライオンのいただきます』のアシスタントを務め、女子中高生の人気を得て、当時の最年少で『オールナイトニッポン』のパーソナリティにも抜擢。

「テレビの影響力の凄まじさを、身にしみて知りました。国立市の寮からスタジオまで電車で通っていたんですが、テレビに出た日を境に、その車両は全部、僕らのファンの女の子っていう状況になったこともありました。そんな感じでデビューから3年ぐらいはワーっていったんですよ」

しかし、その3年で人気にかげりが見え始めたという。

「当時、東京のお笑いの世界では、少し前にとんねるずが一気にブレイクしていました。そのあとに僕らがいたんですけど、お笑い第3世代にドンドン抜かれていくわけですよ。西からダウンタウン、東からはウッチャンナンチャン、B21スペシャル。

TBSの『お笑いベストヒット』っていうランキング番組で第3世代と共演して、思い知りました。僕らテレビタレントのコンビなんで、そもそもネタづくりなんかしてないところに、真の“新しい笑い”が来て、みるみるうちにお客さんの目を奪っていったんです……」

「どうしよう、どうしよう」と焦りだけが募り、新しいネタをつくろうと画策していたとき、当時のマネージャーに引導を渡された。

「“中山、もうコンビとしては負けを認めろ。お前がそこで戦う必要はない”って。もともと僕は歌やドラマ志望だったので、“バラエティーをやれば、お前のやりたかったことができるはずだ”と。

僕たちABブラザーズは、そうやって第3世代の波に飲み込まれて完全に消滅していくんですが、そこがもう土壇場でした。“お前はもう古い”って言われたのが20~21歳ごろだったわけですから」

▲芸能生活たった3年で栄光も凋落も経験しましたね

ダウンタウン、ウンナンと戦わない生き残り方

ちなみに、俳優・中山秀征の初主演作は、1985年の10月期に放送された『ハーフポテトな俺たち』。当時18歳だった彼のリアルタイムを描いたかのような、10代のやるせない日常と恋を描いた佳作だ。その後、立て続けに2作で主演。

「お笑いの道がふさがりかけていたタイミングで、“じゃあドラマに戻ろう!”と試みたんですが、タレント活動が忙しくてお断りしているうちに、どんどん“番手”が下がってしまっていたんです。

さあ、“本腰入れてドラマをやるぞ!”と思っても、5番手ぐらい。でも諦めませんでした。マネジャーと一緒に“ここから上がっていって、絶対、主演に戻ろう!”って言い合って。番手の下がった役を受けて、そこから連ドラの主役に返り咲くのが、だいぶあとになってから、それが『静かなるドン』でした」

中山が27歳のときだ。ただ、そこに至るまでのタレント業での努力と苦労の積み重ねは半端なかった。コンビでの負けを認めた中山が、まず得た仕事は地方局のレポーター。にわかに信じがたいが、彼にもそんな時代があったのだ。そして、そこから劇的なV字回復を見せた、わけではない。

「レポーターで評価されるとスタジオに呼ばれる。そこでV振りをすることができる。それが“いいね”ってなると、パネラーで置いてもらえるようになる。そこで使いやすい気の利いたコメントをすると、今度はMCのアシストをするようになり、うまくMCを引き立てると、そこでようやく自分がメインになる……っていう。

とにかく一つひとつの仕事を一所懸命やって結果を出す、ということしかなかったんです。毎回毎回が土壇場。そうして、どうにかこうにかABブラザーズ解散の頃には1本しかなかったレギュラーが、25歳のときには14本になったんです」

あのとき、第3世代と真っ向勝負をしなかったことが、逃げたと言われるかもしれないけど(笑)、生き残れた理由かもしれないと当時を振り返る。そして、現在の“ヒデちゃん”へとつながることを決定づける番組が生まれた。

『DAISUKI!』である。

『DAISUKI!』を大好きな人、大嫌いな人

中山秀征・飯島直子・松本明子の三人が、話題のスポットに出向いたり、ただただワチャワチャしたり……。『DAISUKI!』は、首都圏における男女間の友情みたいなものを具現化したような番組で、1991年から2000年まで日本テレビの深夜帯で放送されていた。ちなみに、中山は番組開始1年半後からの参加だ。

「深夜でもあり得ないぐらいのヒット番組だったんですよ。占拠率50%で視聴率15%。そういう評価はあるんだけど、世間では“ただ遊んでるだけ”と言われました。

でもね、1本撮るのに僕ら11時間ぐらい遊ぶんですよ。途中で帰りたくても、ちゃんと遊ぶ。“ただ遊んでて楽そうと言われても、こんなに遊んだらイヤになるぞ!”って言いたかったですね(笑)。

台本がないものを当日、ゼロから撮って、起承転結を作って、面白く終わらないといけない。そこには相当のこだわりはありました」

『DAISUKI!』における中山秀征のある発明は、今年5月に発表した著書『いばらない生き方 テレビタレントの仕事術』(新潮社)に詳しく書かれているので、ここでは触れないでおこう。当時、この番組を偏愛していたのが、意外にも爆笑問題の太田光だった。

「太田さんって、僕のことをすごく評価してくれていて。『DAISUKI!』が好きだっていう話も聞いていて、その頃、爆笑問題が太田プロを辞めてから、もう一回這い上がろうと大変だった時期だったんですけど、番組に出てもらったんです。

そのときに太田さんが“『DAISUKI!』を見てたら、ヒデちゃんたち三人が、浴衣で海を見ながら花火をする背中がすごく良くて。あれ見て、オレ泣いちゃったんだよね”と言ってくれて。

それを聞いたとき、“太田さんはお笑いの才能を持ちつつ、すごくニュートラルな感覚を持った方なんだな”と思いました。普通の視点があるからこそ、狙って極端さを出せるし、僕のことも“ヒデちゃんはそのゾーンでやってるんだね”と理解してくれる。それがすごくうれしかった」

というのも、当時は、ほんわかしたTVショー的なバラエティ、そういう笑いは立場が弱かったから……と中山は振り返る。

「世間はストイックな笑いが主流で、ダウンタウンを筆頭に作り込んだコントが席巻していたと思います。僕らはオールドスタイルなバラエティをやってたんだけど、そこにプロレスで例えるとUWF的な、リアルファイトなスタイルが出てきて、まったくやり方が違ったので、すごく戸惑いもありました」

今田耕司と関東・関西の代理戦争

実際、コアなお笑いファンの目には、“ヒデちゃん”が旧体制の仮想敵のように写った時期もあったし、現場でもそうした空気はあったという。

「僕、くくりとして関東、しかも東京の笑いの象徴みたいになってたんですけど、出身は群馬なんですよ!(笑) 東京でもなんでもない。その後、フジテレビの『殿様のフェロモン』という深夜番組で、関西のお笑いを学んできた今ちゃん(今田耕司)と一緒になるんです。

今ちゃんからは、僕のタマを獲りに来てるぐらいの覚悟と気合いを感じました。当時、僕は殿様のフェロモンが14本目のレギュラー番組。かたや今ちゃんは大阪から出てきて、初めてのレギュラー番組だったため意気込みが違いました」

東京で結果を残そうという今田耕司と、みんなで楽しく番組をつくろうという中山秀征。東西のメインMC二人は全くかみ合わなかった。

「僕のプロレスのスタイルに組み合ってくれないわけですよ。とにかく関節技でくる。関節技は、全然テレビ映えしないわりにすごく痛いんですよね(笑)。まさに僕が新日・全日の古き良きプロレスっぽく、手を組んで展開しようとすると、今ちゃんは、僕の腕や足を極めにかかってくる。UWFスタイルでくる感じ(笑)。

結局、“誰が一番強いんだ! 誰が一番面白いんだ!”みたいな争いを、土曜深夜のまったりした時間帯に、視聴者の皆さんにお見せすることになってしまって……。

それを後の『めちゃイケ』メンバーになるナインティナインや極楽とんぼ、よゐこが距離を保ちながら見届ける。番組内容は超くだらないものなのに、現場は戦場と化してるっていう……本当にカオスな番組でした」

▲今田耕司とバチバチだった当時を振り返る

番組は半年で終わったが、今も好事家たちのあいだでは語り継がれる伝説になっている。そして、中山秀征と今田耕司はのちに“和解”。

「今ちゃんが飲んでるときに言ってくれたんです。“あのときにテレビを知ってたのは、ヒデちゃんだけやったね”って。本にも書いたけど“今、自分がMCやメインになって、あのときヒデちゃんがやってたことをやってるんですよ”って。

たぶん、目標は同じだったんですよ。でも、立ってる場所が違った感じでしたね。いま思うと『殿様のフェロモン』は面白くて、本当に良い経験をさせてもらったなと実感しています」

偉大な先輩たちから学んだこと

自分自身の芸能生活をここまで、いや、実際にここに書かれている3倍ぐらいの内容で、とうとうと語り続けてくれている。過剰なボケや直接話法的モノマネや自虐も存分に盛り込みつつ。まさに熟練のスタンダップコメディを見ているかのよう。

そこで、影響を受けた先輩について聞いてみたら、さまざまな先達の名が次から次へと出てきた。島田紳助さん、上岡龍太郎さん、徳光和夫さん……。

「紳助さんからは、自分を客観で評価し、先を見通す目と、24時間態勢で遊びながらも、仕事につなげる姿勢を見せてもらいました。

上岡さんには、自分の好き嫌いをテレビでもはっきり言って主張する姿と、時に驚くぐらい無邪気さを見せる可愛らしさを教えてもらいました。

徳光さんには、現場で相手と話して相手のことを理解する力と、ファンになって自分で相手のことを知るホスピタリティを学びました」

島田紳助さんとは、まだ彼がパネラーとして中山と並んで番組に出演していた頃に知り合い、飲みの席で“俺、将来はニュースやりたいねん”という告白を聞いたそう。その理由は「(明石家)さんまには勝てないから」。

「"紳助さんは面白いじゃないですか!”って僕が言ったら、“あいつには、俺にない華があるんや”って言うんです。“だからニュースを勉強しようと思ってる。たぶんそのとき、俺のライバルになるのは古舘伊知郎やで”って。

当時、古舘さんはたくさん司会をされてたけど、ニュースはやってなかったから全然ピンとこなくて。でも、紳助さんは報道番組のキャスターを実際にやったし、古舘さんはその後、報道ステーションの司会になった。先見の明に本当にビックリしました。

あと、紳助さんはあれだけ忙しくても“暇や〜”っていつも言ってて、仕事のあとにスーパーで魚を買ってきて、自宅でお寿司を握ってくれたり、集まってくる若手相手にゲームを考えたり……それが発展して『ヘキサゴン』とかになったりするんですよ」

上岡龍太郎さんは、中山が若かりし頃にこっそり開催していたロカビリーのライブに、よく顔を出してくれたという。

「上岡さん、あんなにコワモテで論理的なのに、ロカビリーには目がなくて。“お前は若いのに、プレスリーが好きなんやな。よおわかっとるなぁ”って、僕のライブでも踊ってくれました。その無邪気さが失礼ながら可愛くて。一方で、占いとかオカルトに対しては異常に厳しくて。テレビでちゃんと好き嫌いを打ち出していいんだなって教わりました」

歌謡番組の司会の口上は、徳光和夫さんに大きな影響を受けた。

「相手を知ったうえで、気持ちよく乗せるボキャブラリーとホスピタリティーを学びました。携帯を持たず、Wikipediaを読まず、現場で見て話して覚える、まさに人間辞書。しかも、いろんな方のコンサートに行かれるんですが、招待に頼らず、自分でチケット買われるんです。それで終演後に楽屋にも寄らない。慎ましいプロですよね」

なぜ中山は、さまざまなジャンルの先輩たちに可愛がられたのだろう。そう尋ねると、少し考え込んだ。

「むしろ、僕のほうが皆さんに興味があって、いろいろ聞きたかったんだと思いますよ。それに皆さんに遊んでいただきましたけど、そんなにべったりというわけではなく(笑)。なんとなく均等にお邪魔していたような感じですね」

テレビに出てる人にはテレビを諦めないでほしい

ただ、とりわけ可愛がってもらった人がいる。志村けんさんだ。

「僕はバカバカしいことを平気でやるし、ふざけるし、酒も宴会も好きだから……っていうのがあったからかな。志村さんに言われた“いつまでもバカでいろ”っていう言葉は、とても大切にしています。

僕がニュース番組をやるようになった時期だったんですが、“経験を積むといろいろ覚えていくじゃん? そうすると利口になって天狗になるんだよ。それは勘違いだから気をつけろよ。とにかく、俺たちは大したことがないんだってことをいつも覚えておけ”とおっしゃるんです。

続けて“俺だって、志村うしろー!って言われるけど、そんなことは知ってるんだよ”って(笑)。バカでいるというのは、その同じことを繰り返すことでもあるんだって教えてもらいました」

▲ビッグネームとのエピソードが次々と飛び出してくる

中山秀征は、そんな昭和の芸人・MCたちのさまざまな哲学や魅力のハイブリッドなのかもしれない。番組を仕切っているときの彼はとても楽しそうだが、そこには独自の哲学がある。

「どんな番組にも、絶対に変えちゃいけない前提というものがあります。でも、それ以外のところは変えていい。ただ、“変わった”ということを視聴者の皆さんに気づかれないことが大事。少しずつじわじわ変わっていって、たとえば3年とか5年で全然違う番組になっちゃってるのはいいんですよ。長寿番組ってそういうものだから。

ただ……出演者的には、演出が変わるのは要注意ですね。変わってすぐは、みんな自分の色を出したがるから。そこは“待て!”と言います(笑)。急にガラッと変えるより、やりたい要素をどうやってうまく今の流れに入れるか、それを考えようよって伝えます」

そうやって番組が少しずつ変わるなかで、中山が自分に課しているのは「自分も変わること」。じゃないと、変わっていく番組のなかで自分だけが置いていかれることになってしまうから。

そうやって変わり続けてきた。番組の構成やトレンドだけでなく、テレビのビジネスモデルもずいぶん変わってきたなかで、中山秀征が今後やってみたいこととは。

「テレビのあり方って、いま問われてますよね。YouTubeもあれば有料配信もいっぱいある。なんでもできる時代だし、そっちの方へ行きがちだったりもする。でも、テレビに出てる人にはテレビを諦めないでほしいんです。

僕はテレビが好きだから、絶対に“もうダメだ”とは言わない。テレビのなかで生きる僕としては、それを貫いていきたいと思います。そして思うのは、これからのテレビは“生放送と作りもの”が重要になるんじゃないかな。

『DAISUKI!』の時代の僕とは真逆ですけど、今こそ“作りもの”をやりたいです。歌とコントとトークの作り込んだ30分番組。これが僕が見てきたテレビの“キラキラ”の正体だと思う。きっとプロのエンターテイナーしかできないし、テレビにしかできないと思うんです。

僕、年1で昭和歌謡のライブをやってるんですが、それはいわばショーケース。さらにグッとショーアップしたプログラムを個人的に作って“僕がテレビでやりたいのはこういうことなんだよ!”って、皆さんに知っていただきたいですね」

(取材:武田 篤典)


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