朝ドラ「虎に翼」が光を当てた戦災孤児…75年前の新聞はどう伝えたか、当時の記事から振り返る

鹿児島駅前でクツミガキをして日銭を稼ぐ戦災孤児の「日記」を掲載した1948(昭和23)年5月5日付の南日本新聞

 NHK連続テレビ小説「虎に翼」に、戦後の街にあふれていた戦災孤児が登場した。1947(昭和22)年5月5日付と6日付の南日本新聞に掲載されたのが、10代前半の孤児たちを集めた「座談会」の記事だ。「浮浪児の告白を聞く」の見出しがつく。家族を失い、自力で生きる道を探らざるを得なかった子供たちの声が紙面に残されていた(一部不適切な表現も含まれますが時代背景を尊重しそのまま再現します)。

■浮浪児の告白を聞く

 5日付でまず目につくのは「子供をいたわろう きょうから児童福祉週間」と、児童福祉週間をPRする記事だ。

 「文化国家建設の重い責任を負うている日本のよい子たちは、新しい憲法のもとにその前進を祝福されるであろう」とある。とはいうものの、この児童福祉週間の各種行事の筆頭に挙げられているのが「鹿児島、川内、鹿屋三市の浮浪児一斉調査」だった。行政が実態さえつかめていなかったことが推測される。

 その隣に置かれた記事が「浮浪児」座談会。前文にはこう記されている。

 「戦争が生んだ幾多の悲劇のなかにもっとも胸をいためるものは孤児の増えたことであろう。家を失い、親兄弟と別れた子供たちは明日の希望も持たず町から町へ放浪しているが世の人もけわしいなりわいに心を奪われて進んで救いの手をさしのべようともしない。五月五日から展開される児童福祉週間は実にこれらの子供たちへの配慮を喚起するためのものである。本社ではこれら浮浪児の生活を素描するために青空座談会を開いた。とらえた子供は鹿児島駅付近にいた子供八人。時は新憲法実施のよろこびに市中がわきかえる五月三日の午後である」

 以下、やりとりを抜粋する。

 本社 君たちはどこから来たのかい。

 安川君 八幡市にいたんだけど二十年の春、空襲でお父ちゃんもお母ちゃんも死んじゃった。兄弟もないや。それから博多の親類の家にいたんだが、邪魔ものあつかいにされたので大阪にいきクツミガキなどしていたが大阪は寒くてやりきれなかった。今年三月の末鹿児島に来たのだが、友だちが易居町の中村さん(仮名)を知っていたのでいまそこにいるんだ。

 野中君 僕は長崎で原子爆弾のためみんなやられ一人残ったので大阪から北九州、熊本と歩き四月十一日やっとここにきた。

 宮園さん 川辺郡の万世町に小さい時から叔母さんの家にいたのですが、ひどくしかられたので終戦当時とび出し伊敷の仁風寮にいたけれどそこを逃げちゃった。いま復興市場のオデンヤで火をたいたりしています。そのかわりご飯だけちょいちょいあるけれど…。

■「朝から何もたべん」

 「浮浪児の座談会」は翌6日付に続く。見出しは「今日は朝から何もたべん だが彼らは案外平気」。以下は6日付のやりとり抜粋。

 本社 君たちはどうして食っているのかね。

 安川君 クツミガキを山形屋の前でやっていますが、モトデは百円あれば十分です。一日のもうけは百十円ぐらいで、クツ墨は一日一個あれば大丈夫です。

 本社 お金持だな、君は。

 安川君 いや中村の小父さんの家で食べたりねたりするので、ぜんぶ渡します。そのかわりこづかいはもらえる(…と鼻をこする)

 本社 野中君は?

 野中君 僕はなにもない。前はクツミガキをしていたが、道具はとられちゃった。駅にいるとだれかがご飯をくれる。その時はおじぎを四、五へんするよ。今日はまだ朝から何もたべていないが、食べない日が多いのでなんでもない(…と腹をナデる)

 本社 毎日どこに泊まるの。

 安川君 駅にとまる。ござなんかかりて。

 宮園さん 私も駅よ、今はおでんやを出たから。

 本社 君たちは何がほしい。

 田口君 ごはんがほしい。白米のごはんが。

 空腹を訴え、駅で寝泊まりする子たちだが、全体に悲壮感が漂っていないのはなぜだろう。社会全体が飢えていたからか。ともかく戦争は終わったという開放感か。想像をかきたてる。

■終戦から3年たっても

 48年5月5日付でも児童福祉週間関連記事と併せて戦災孤児を取り上げた。

 前文にはこうある。

 「終戦後話題になった浮浪児もさいきんになって忘れられがちとなったが、その後の生活はどんなものか。鹿児島駅前の一クツミガキ少年の日記を紹介しよう」

 主人公の少年(14)は長崎で母親を失い、「昨年十月ごろクツミガキをはじめ」たという。

 紙面に掲載された「日記」から抜粋する。

 四月三日 きょうは神武天皇祭でお役所や会社はお休み。ハイキングにゆく若い人たちで朝から駅前はゴッタかえしている。ボクたちはこんな日が稼ぎの日で遊びどころじゃない。トナリの吉ちゃんなど、くる時は一しょに来やがって、ないときはさっぱりなんだからとグチをこぼしているがおかげできょうの売上額は二百三十円あった。

 四月八日 親友の悦ちゃんは朝から見えないと思ったらヒルすぎひょっこりあらわれたが、かねてににず元気がない。わけをきくと“三年前のきょう鴨池でヤケたんだ”といいのこしてどこかへ行ってしまった。

 四月十五日 復興市場のオデンヤに世話になっているので下宿代として八百円やった。今月は少しもうけが多かったのでシャツを買ったら三百五十円とられた。

 四月二十日 きょうは朝から雨が降って仕事はオジャン。バラックの中でねていたら悦ちゃんが遊びにきた。悦ちゃんは叔父さんの家にやっかいになっているが家にいるのは少しも面白くないという。ボクも雨の日はきらいで、二人で午前中はマンガの本を見たり、となりの姉さんからトランプを借りてきて遊んだ。

 みんなとなりの姉さんのことをパンパンと冷やかしているが、やっぱりボクたちとおなじくヤケたんだから可哀相だ。悦ちゃんは姉さんからタバコをもらってスパスパやりはじめた。ボクにもすわんかといったので、すってみたら頭がフラフラしはじめた。顔が青くなったので悦ちゃんが生ミソを食べたらよいといって食べさせた。姉さんは何がおかしいのかゲラゲラ笑って“いまにすえるようになるから心配しないでよい”といっている。悦ちゃんはいつのまにおぼえたのかスウスウとふかしている。ボクはなんだか負けたようでくやしい。

 四月二十三日 昨年八月までには駅前には十五名戦災孤児がクツミガキをしていたが、年末にはほとんどいまの連中におっぱらわれて、大阪に行って吉ちゃんと悦ちゃんとボクだけになっていたが、二人とも北九州にきのう行ってしまったのでボクも二、三日したら宮崎の姉さんのところに行きたい。アチラでは何をするかわからない。鹿児島は暮らしやすく離れたくないが、友だちがいないと仕事も面白くない。
 
 日記形式だが、記者が話を聞いて再現したものかもしれない。“脚色”を感じられないこともないが、実態は反映しているだろう。戦争から3年が経過しても、孤児たちは街から消えていなかったことが分かる。

「浮浪児の告白をきく」と題した1947(昭和22)年5月5日付の南日本新聞記事

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