百貨店が消えたまちを歩いた。にぎわいは程遠く、駅前は活気を失った。若者はそっけなく「買い物はイオンか通販」…高齢女性は本音を漏らした「やっぱり『一畑』の紙袋で包んで渡したい」

駅前通り沿いに残る一畑百貨店の建物。看板はそのまま残っている=7日、松江市のJR松江駅前

 私的整理の一種「事業再生ADR」で経営再建を目指す山形屋(鹿児島市)をはじめ、百貨店事業は地方を中心に苦境に立たされている。今年1月、島根県で唯一の「一畑百貨店」が65年の歴史に幕を下ろした。閉店から半年、街はどのように変わったのか。現地を歩くと、「地域経済のためにも必要だった」「特に影響はなく困ってもいない」とさまざまな声が聞かれた。

 6月上旬、島根県東部にある松江市を訪ねた。鹿児島から新幹線と特急を乗り継ぎ約6時間。陸の玄関口・JR松江駅で下車し駅前広場に出ると、すぐ目の前に地上6階建ての白い建物がそびえていた。正面玄関はシャッターで閉じられ、窓は板張りされている。垂れ幕などもなく、一目では百貨店と気付かない。周囲を歩くのは帰宅途中の学生や足早に先を急ぐサラリーマンばかりで、「にぎわい」からは程遠い印象だ。

 店舗前にはタクシープールがあるものの、3、4台待機するだけで列をつくる客もいない。平日とはいえ、県都の玄関口としては寂しい雰囲気が漂う。20年以上ハンドルを握る男性運転手は「一畑百貨店が閉店して明らかに駅前の活気がなくなった。買い物帰りの客もいなくなり痛手。続けてほしかった」と明かす。

 一方で、若い世代からは冷めた声も聞かれる。駅前広場でバスを待っていた専門学校生の福田杷愛萌(はあも)さん(19)は「百貨店にはほとんど行ったことがない。洋服や化粧品はもっぱらイオンか通販」。西田奈美さん(19)も「寂しいとは思うが、閉店しても困ってはいない」と漏らす。

 駅周辺では、バスやタクシー、駐車場といった至る所で「一畑」の屋号が目に付いた。一畑は1914年に県東部に開通した私鉄を運営する「一畑電気鉄道」を中心に発展したグループ企業。交通サービスのほか、不動産や観光業などを手がける地元の大手で、「一畑」の名は県民に浸透していると思えた。

 一畑百貨店は58年、小売部門として松江市殿町に開業、84年に株式会社として独立し、98年に本店をJR松江駅前へ移した。ピークの2002年3月期には100億円以上を売り上げ、松江のシンボルとして地域経済を牽引してきた。

 ただ山形屋と同じく、人口減やリーマン・ショックの影響で売り上げは徐々に減少。新型コロナウイルスが追い打ちとなり、23年3月期にはピーク時の約4割の40億円まで売上高は落ち込んでいた。

 周辺で、にぎわいをみせる場所を見つけた。駅から北1キロにあるコンベンション施設「くにびきメッセ」では、1日からお中元ギフトセンターが開かれていた。一畑百貨店閉店で、売り上げが減少する事業者を支援しようと県が設置。和牛やマスカットなど県産の商品が並び、「中元を買う場所がなく困っていたので助かる」と比良田弘子さん(71)さんは笑う。「でも本当は」と続け、「一畑の紙袋で包んで渡したい気持ちもある」。

※2024年6月23日付掲載、連載「山形屋再建~百貨店消えた松江㊤」より

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