第1回オリンピック大会の切手やトロフィーを手掛けたスイス人

パリのルーブル美術館に展示された、エミール・ジリエロン作のプレートやメダル (KEYSTONE)

スイス人芸術家エミール・ジリエロン(1850~1924年)は、1896年にアテネで開かれた第1回オリンピック大会のポスター、トロフィー、記念切手をデザインした。パリのルーブル美術館では来月地元で開催されるオリンピックに合わせ、ジリエロンの作品を展示している。

1896年にアテネで開かれた第1回近代オリンピック大会の記念アルバム表紙には、勝者に与えられるオリーブの冠とギンバイカの枝を持つギリシャ人女性の姿が描かれている。五輪初のポスターとされるこの絵の作者はつい最近まで不明だった。だがアテネ・フランス学院(École française d'Athènes)が2018年に行った研究によって、この作家の名前が判明した。それがエミール・ジリエロンだ。

1890年代、ジリエロンは純然たる古代通だった。それを如実に示すのが、彼のポスターに描かれたものだ。背景にはアテネのアクロポリス、前景には古代オリンピック発祥の地オリンピアを象徴する幼きヘラクレス。そして一番上には、古代ローマの石棺の飾りプレートから写し取られた赤子のアスリートたちの姿が!

ジリエロンは、挿絵画家、デザイナー、彫刻家、そして普及者のみならず、美学者でもあり、自流の発明家でもあった。この最初のオリンピック大会は彼にとって、自らの芸術を壮大なスケールで実践する絶好の機会となった。

ジリエロンは1850年にヴォー州のヴィルヌーヴに生まれ、ベルン州ジュラベルノワにある自治体ラ・ヌーヴヴィルの高等学校に進学。その後バーゼル、ミュンヘン、パリで美術を学び、ルーブル美術館のギリシャ古美術の傑作を数多く模写しその秀でた才能を磨いた。1876年にアテネに渡ったジリエロンはギリシャ王室、ゲオルギウス1世の子息たちに絵画を教えた。

若き国ギリシャは当時、ナショナリズムと考古学的大変動の最中にあった。輝かしい古代をよみがえらせようと、至る所で発掘調査が行われた。ジリエロンはアクロポリスやアトス山の発掘に参加し、古代作品の複製という新しいキャリアを築いた。浅浮き彫りの水彩は、ニューヨークのメトロポリタン美術館などの主要美術館に売却し、彼の名前を一躍有名にした。

サッカーか円盤投げか

同じ頃、パリでは近代オリンピズムの構想が練られていた。設立間もない国際オリンピック委員会(IOC)の事務総長ピエール・ド・クーベルタン男爵は、新しい五輪大会の姿を思い描いた。オリンピックの伝統とアテネ民主主義のオーラを持つギリシャにしてはどうだろうか?しかし、古代競技を行うことは頭になかった。男爵がやろうとしたのはむしろサイクリング、熱気球レース、サッカーなどの競技だった。

クーベルタンの友人で言語学者ミシェル・ブレアルはもっとロマンチックだ。ブレアルは1894年9月、滞在していたヴォー州のグリオンからクーベルタンに手紙を書いた。「君はアテネに行くのだから、プニュクス(アテネ中心部にある丘)でマラソン・レースを開催できるか考えてみようではないか。古代の雰囲気が出るぞ。ギリシャの戦士がどれくらいの時間でゴールしたかが分かれば、記録を作ることができるだろう。私としては、『マラソン・カップ』を提供したという名誉が欲しい」。当時62歳だったブレアルは、ギリシャを見たこともなければ、走ったこともほとんどなかった。しかし、こうしてマラソンを発明したのだ。

カップ、花瓶、切手

となればカップ、トロフィー、メダルが必要になる。エミール・ジリエロンは模写の才能と溢れる想像力を自由に発揮した。彼はカップ、花瓶、ゴブレットだけでなく、大会記念切手も制作した。「1896年の切手は大会の資金調達に役立った。当時、ギリシャで手に入る唯一の切手だったからだ」とルーブル美術館のジリエロン展担当学芸員アレクサンドル・ファヌー氏は説明する。

ギリシャ人にとっては、クーベルタンのアイデアは納得できない部分があった。オリンピックでは古代競技をやるべきだという考えだったからだ。それは結構なことだが、円盤投げは一体どうやるのか?まずは、紀元前5世紀のアテネの彫刻家ミュロンによる有名な「ディスコボロス像」をよく見て、そこから続くであろう動作を想像することから始めなければならない。選手の動きを解明するために、シネマトグラフの前身であるクロノフォトグラフィーの技法が使われた。しかしこの技術は成功を収めることはなかった。ギリシャ式は20メートルに届かなかったのに対し、アメリカ式は50メートルを超えたのだから...。

優秀な商人

それでもジリエロンは、「ディスコボロス(円盤投げ)」の切手をベストセラーの1つにした。1890年代にはアテネに腰を据え、古いサン・ドニ教会の向かいに立派な邸宅を構えていた。アテネ・フランス学院のジリエロン・プロジェクトの責任者で、ルーブル美術館の展覧会のキュレーターであるクリスティーナ・ミツポウロウ氏は「ジリエロンは3つのキャリアを追求し、やがて彼の息子も手伝うようになった」と説明する。

ジリエロンは国立考古学博物館の鋳型工房の責任者だった。自身の会社を通じ、高品質の鋳造品や複製品を特に国外に販売した。アンティークの壁画も制作・販売した。ミツポウロウ氏は「こうした活動が時に問題となることがあったーー例えば、オリジナル版の出版前に複製品が出回ったのをギリシャ当局に見つかったときなどがそうだ」と話す。ジリエロンは1906年、アテネで開かれた中間大会でも同様の成功を収めた。

ジリエロンは時折、純粋に考古学的な現実から離れ芸術的な発明の領域に足を踏み入れる。ギリシャのイメージがことごとく刷新されるオリンピックでは何の問題もないことが、他の場所ではより大きな問題となる。1905年、イギリスの考古学者アーサー・エヴァンズがクレタ島のクノッソスで発掘調査を行った際、ジリエロン父子は厳密な現実よりも、自身の想像、あるいはエヴァンズのこうであってほしいという欲望に基づいて「ユリの王子」の壁画を再現した。「今日、私たちが忠実な複製、模倣、解釈と明確に分けているものは、当時はもっとあいまいだった」(ミツポウロウ氏)

当時、少なくともギリシャ愛好家の間では非常に有名だったエミール・ジリエロンが、その名声を失ったのはなぜか?「アーサー・エヴァンスやドイツのハインリヒ・シュリーマンのような偉大な考古学者は、協力者の存在にほとんど言及しなかった。それが自身の仕事に誇りを持っていたジリエロンの気に障った」(ミツポウロウ氏)

しかし、彼の作品に対する再発見・再評価は好調に進む。ルーブル美術館の展覧会の後、ミトプールー氏は、ちょうど100年前の1924年に亡くなったジリエロンの生まれ故郷であるスイスで展覧会を開催する予定だ。

仏語からの翻訳:宇田薫、校正:上原亜紀子

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