6月29日 佐世保空襲から79年 1200人超もの市民が犠牲 戦争の愚かさ訴える

墓銘碑に刻まれた祖父の名前をさすりながら「ここに来ると会えたような気がする」と話す山口さん=佐世保市、中央公園

 太平洋戦争末期の1945年6月にあった佐世保空襲から29日で79年。佐世保市黒髪町の山口廣光さん(85)は祖父ら親族7人を失った。家族の「司令塔」だった祖父・光次さんを亡くし、なに不自由なく暮らしてきた生活は一転した。「空襲は家財も家も焼き尽くし、無一文になる。やっとの思いで助かった家族の人生も狂う」。同日の追悼式では、いかに戦争が愚かであるかを遺族代表として訴える。
 市中心部の中央公園。山口さんは墓銘碑に並んだ多くの名前から祖父を探した。「山口光次」。雨にぬれる碑に刻まれた文字を指で何度もさすりながら、遠い記憶をたどった。
 忘れられない光景がある。現在の中央公園にリヤカーで次々と運ばれてくる遺体。防空壕(ごう)で蒸し焼きになった人、やけどを負い水膨れになった人…。積み上げられた無数の遺体から父が祖父を見つけ出した。
 祖父は警防団の地区隊長だった。最後まで近所の家の火を消していたと聞いた。松浦町にあった壕の中で遺体で見つかった時は、鉄かぶとをかぶったまま、少年兵を胸に抱いていたとも。街を、住民を守る優しい人だった。
 大好きだった祖父と無言の対面。厳しくも、たくさん遊んでくれた。「じいちゃん」と呼びたくても声が出なかった。当時6歳。現実が理解できなかった。
     ◆ 
 28日深夜から29日未明にかけ、141機の米爆撃機B29が焼夷(しょうい)弾約千トンを投下。空襲警報が鳴り響く中、母、妹と防空壕に逃げ込んだ。夜なのに外は明るく、一時的に移り住んでいた上相浦町から見えた景色は真っ赤。市によると、家屋は全戸数の35%に当たる1万2千戸超が全焼。死亡者は1200人超とされる。
 裕福だった暮らしは一転。中心部にあった自宅は全焼し市内外を転々とした。高校進学後、月謝の未納が続き、中退。アルバイトをしながら定時制の夜間高校に通った。仕事がうまくいかなくなった父は浴びるように酒を飲み、59年に49歳で亡くなった。もし、あと1カ月半早く終戦していれば-。そんなことを考えたりもした。詮ないことは分かっていたけれど。
     ◆ 
 山口さんは、祖父らの名前が刻まれた墓銘碑に定期的に足を運ぶ。碑に名を連ねる1200人超もの一般市民が犠牲になった事実を前に、戦争とは何なのか考える。
 「戦争の怖さを知らずに、戦争を始めてしまったら取り返しが付かなくなる」
 戦争経験者が教えてくれた教訓が、非戦の思いを79年間つないできた。29日の佐世保空襲の日はまた1年、誓いをつなぐ日でもある。

© 株式会社長崎新聞社