「解体か保存か」職員ら43人犠牲になった防災対策庁舎 町有化して保存されるまでの13年間紆余曲折とは

紆余曲折の末、1日、町有化し保存されることになった宮城県南三陸町の防災対策庁舎。ここに至るまでの経緯を振り返ります。

旧志津川町の行政庁舎のひとつとして、1995年に建設された3階建ての防災対策庁舎。かつてのチリ地震津波の教訓から防災設備を整えていました。

ところが…。

2011年3月11日、東日本大震災の津波が南三陸町を襲い、庁舎から避難を呼びかけていた職員ら43人が犠牲になりました。

保存か解体か…

骨組みだけとなった庁舎。その後、保存か解体かの議論が巻き起こります。

佐藤仁南三陸町長(2013年9月): 「最終的に苦渋の決断、結論として解体せざるを得ない」

2013年9月、佐藤仁町長は復興工事への影響や財政的な理由から解体を決定します。

村井知事が県有化を提案

しかし、その一方で、津波の恐ろしさを伝える震災遺構として保存を望む声もあり、県の有識者会議も「ぜひ保存すべき価値がある」と評価しました。

こうした中、2015年1月、村井知事が庁舎の県有化を提案します。

村井知事(2015年1月): 「県としては震災から20年、すなわち平成43年(2031年)3月10日まで県が県有施設として維持・管理して、町の方にお返しし、そこで町が保存するか解体するか結論を出してほしい」

解体を望む遺族らから反対の声もありましたが、佐藤町長は県有化の提案を受け入れました。

その後、防災庁舎を含む一帯は「震災復興祈念公園」として整備されました。

町有化して震災遺構に

そして今年3月。

佐藤仁南三陸町長(2024年3月): 「未来を生きる世代に、この町が被災した事実・歴史を確かに伝えていくには、町において防災対策庁舎を所有し、維持・管理していくことが必要であると考えた」

佐藤町長は、庁舎の所有を県から町に戻し、震災遺構として保存する意向を明らかにしました。紆余曲折の末、町有化された防災対策庁舎。震災発生から13年で大きな節目を迎えました。

防災対策庁舎は、2017年に県がさび止めや柱の補強などの補修工事を済ませています。佐藤町長は「小中学生が防災減災を学ぶ場所としても活用したい」と話していますが、震災を伝える遺構の数は限られており風化が懸念される中、町としてどのように活用していくのかが問われます。

© 東北放送