戦禍避け縁故なき地方へ 東京から本県に1万人超 44年本紙報道、寺院や旅館で共同生活

 戦時中の学童集団疎開は始まった年から、今年で80年となる。戦況悪化に伴って1944年6月30日、学童疎開促進要綱が閣議決定され、地方に縁故のない都市部の子どもたちが疎開した。その数は不明だが、35万人とも40万人ともされる。本県は疎開先となり、現在の16市町内で計1万5118人(44年9月1日時点)が生活を送った。かつて疎開児童が暮らした県内の場所などを巡り、その記憶をたどった。

 学童の集団疎開は、日本軍の劣勢で米軍による本土空襲の本格化が現実味を帯びた1944年、一気に加速した。対象は東京など13都市に住み、地方の親戚らを頼る縁故疎開が難しい国民学校初等科の3~6年生。東京の第1陣は8月4日に出発した。最終的に疎開先は34都府県に上ったともいわれている。翌45年には1、2年生も対象に加わった。

 44年9月28日付の下野新聞によると、本県は同1日時点で1万5118人の疎開児童を受け入れた。付き添いの職員や寮母は1533人。全て東京からで麻布区と芝区(いずれも現港区)、本郷区(現文京区)、牛込区(現新宿区)の学校だった。

 同8月14日付の下野新聞では「けふ第一陣入懸」との見出しで、14日に現在の鹿沼市粟野地域に疎開児童が到着することなどを報じている。

 疎開児童は寺院や旅館、集会所などで共同生活を送り、地元の学校や滞在先の施設で勉強した。学童疎開を研究する元都賀町教育長の小倉久吾(おぐらきゅうご)さん(87)は「1校の児童を複数の寺や旅館で分散して受け入れた。途中から縁故疎開に切り替えるなど子どもの入れ替わりも激しかった」とし疎開の全体像を正確に把握するのは難しいと指摘する。

 当時は配給制だったため食べ物も満足になく、子どもたちの発育に影響はあったという。「食べ物もなく、ノミやシラミに苦しみ、いつ帰れるのか分からない状態は子どもには負担だっただろう」と、小倉さんは察する。

 45年8月15日に終戦を迎えても、疎開児童らはすぐには帰れなかった。東京都が帰校命令を出したのは1カ月後の9月。多くの児童が11月末までに戻ったものの、東京大空襲などで家族を亡くした子らは孤児にならざるを得なかった。

 戦後、疎開先を訪れ地元住民と交流を深める元児童や元教員の姿が県内でも見られたという。小倉さんは「疎開や戦争なんてない方がいい」とした上で「(疎開をきっかけに)戦後生まれた新たな親交もあった」と、別の側面も受け止めている。

1944年8月30日付下野新聞。「村長や助役も泊り込み 疎開学童達に温情の奔流」の記事で、上都賀郡に疎開してきた児童らを地元住民が料理などで支えたと伝えている

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