栃木県内 あの日の群像

疎開してきた児童らの集合写真(県立博物館提供)

県立博物館 寄贈写真に歓迎の様子

 県立博物館が所有する写真には、東京都内の国民学校から日光市へ疎開してきた児童らが並ぶ。子どもたちが寝泊まりしたホテルの前で撮影されたとみられるが、詳しい撮影時期や撮影者は不明という。

 建物には「川治温泉ホテル」との看板がかかる。子どもたちの後ろに立つのは教員や児童らの世話に当たった寮母、旅館の従業員らと思われる。「みんなでまつて居ました」との幕も掲げられ、疎開児童を歓迎して受け入れた様子がうかがえる。

 同館の担当者は「子どもたちは小学校中学年程度。到着して撮影した可能性が高い」と話した。写真は2007年、当時の疎開児童から寄贈された。

那須塩原・旅館「満寿家」 当時の暮らしぶり写す

 江戸時代から続く那須塩原市塩原の旅館「満寿家(ますや)」には、1944年8月25、26日に東京都本郷区(現文京区)の根津国民学校の児童359人と教職員ら32人が集団疎開した。児童らは最長で45年10月13日までの約1年2カ月間を、この旅館で過ごした。

 旅館には当時の写真が多く残る。別館前の道路で行われた朝礼、館内での授業風景、所狭しと湯に漬かる児童。それぞれの写真に子どもたちの生活ぶりが浮かぶ。

 当時女将(おかみ)だった祖母が児童らを世話したという、旅館の臼井祥朗(うすいさちお)代表(58)は「塩原温泉には写真技師が数人いた。フィルムも多くあったので、写真が残っているのだと思う」と話す。

 児童や教員は戦後も旅館を訪れ、同期会を開いた。疎開中の事を尋ねた臼井さんに、教員たちは「食料が少なく、食べられない状況がいつまで続くのか分からない。それが一番つらかった」と口にしたという。

 臼井さんは、疎開の様子を伝える写真を今も大切にしまっている。学童疎開80年という歳月に思いを巡らせ、「歴史を残していきたい」と語った。

栃木・繁桂寺 現存する「学寮」の看板

 栃木市藤岡町藤岡の繁桂寺(はんけいじ)は1944年8月から46年3月まで、東京都牛込区愛日国民学校(現新宿区愛日小)の児童約40人を受け入れていた。

 先代住職の繁岡哲哉(しげおかてっさい)さん(82)は2018年に物置の中から、子どもたちの疎開先だったことを示す看板を見つけた。「繁桂寺学寮」。木製の板に、墨字で記されていた。

 かつて看板は本堂正面入り口の左側の柱に掛かっていた。疎開児童が当時の住職に宛てた絵手紙にも描かれている。

 学寮の看板は終戦直後に廃棄処分された。ほとんど残っておらず、現存するのは全国的にも珍しいとされる。

 愛日小の児童は例年修学旅行に合わせて繁桂寺を訪れ、先輩たちの暮らしぶりを学ぶなど現在も同校と寺の交流は続いている。

 繁岡さんは「看板や絵手紙が残っていることが、ここが疎開児童を受け入れていた場所だという大きな証。残された資料を生かし、当時の状況などを後生に伝えていく必要がある」と話した。

日光・川治地区コミュニティセンター お礼に贈られたピアノ

 日光市の川治地区コミュニティセンターには「疎開ピアノ」が残る。旧藤原町(現日光市)へ学童疎開していた東京都の国民学校から、お礼として贈られたとされるピアノ。地元住民らが大切に保管している。

 ピアノには「学童集団疎開記念 東京都南海国民学校」との板が付いており、昭和19年8月とも記されている。以前は同市川治小中学校の校舎内に置かれていたが、長年使われておらず、ほとんど音が出ない状態だった。

 修理や調律を行って2010年、同校の閉校式で再び音色が披露された。その後はセンターに移し、地域住民が定期的に弾いて音を確認している。

 川治自治会元会長の関本昭(せきもとあきら)さん(83)は「学童疎開を受け入れたこの場所に、このピアノが今もあることが大事。これからも地域で引き継いでいきたい」と話した。

満寿家に残る写真。別館前で朝礼を行っていた
満寿家に残る写真。所狭しと風呂に入る子どもたち
満寿家に残る写真。子どもたちは館内で勉強に励んだ
疎開児童を受け入れていた「繁桂寺学寮」の看板=6月中旬、栃木市藤岡町藤岡
疎開児童が当時の住職に宛てた絵手紙をまとめた「繁桂寺だより」。「繁桂寺学寮」の看板も描かれている
東京都の国民学校から贈られたピアノ=6月下旬、日光市藤原
東京都の国民学校から贈られたピアノ=6月中旬、日光市藤原

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