元ロッテ醍醐氏が死去 球団5位の1775試合出場、捕手として1698試合は史上8位

醍醐猛夫氏のNPB通算成績

早実高から1957年に毎日に入団、荒巻ら歴代エースのボールを受ける

 12月11日に81歳で死去した醍醐猛夫氏は昭和のパ・リーグを代表する捕手の1人だった。

 1938年11月15日、東京生まれ(以下敬称略)。早実高時代には、2学年下の王貞治とバッテリーを組み夏の甲子園に出場。同級生には国鉄、サンケイで内野手として活躍した徳武定之がいた。

 高校卒業後、毎日オリオンズに入団。1年目の1957年から正捕手となる。この年は左腕小野正一が26勝を挙げたが、19歳の醍醐は好リードで小野をサポートした。

 2年目以降は谷本稔と併用されることが多くなり、1961年以降は控え捕手となった。代打での出場も多くなったが、1963年に6年ぶりに捕手として100試合以上出場。再び正捕手として起用された。翌1965年に谷本が阪神に移籍すると、全試合出場。捕手としては珍しく3シーズンも全試合出場を果たしている。

 醍醐は荒巻淳、小野正一、小山正明、木樽正明、成田文男、村田兆治と歴代エースの球を受けた。

 1961年には3年ぶりに現役復帰した中日の伝説のエース、杉下茂の球も受けている。杉下のフォークを受けて右手を突き指したという。杉下は引退後、プロ野球OB会などで醍醐と顔を合わせるたびに「杉さん、この指見てよ。曲がったままだよ」と言われたという。

 身長181センチ、体重80キロと、当時としては大型。投手陣には「的が大きい」と好評だった。柔らかいキャッチングでも投手の信頼を集めた。打撃では打率は低かったが長打もあり勝負強かった。

1971年に4打席連続本塁打、オールスターに4度出場

 1971年7月3日、後楽園球場での東映とのダブルヘッダー第2戦では5回(杉田久雄)、6回(杉田久雄)、8回(尾崎行雄)と3打席連続本塁打。翌4日の同じカードでも3回(金田留広)に本塁打を打ち、2試合にまたがったもののNPBタイ記録の4打席連続本塁打を記録している。

 同時期のパ・リーグには南海の野村克也がいたため、醍醐は一度もベストナインには選ばれていない。しかしオールスターには1965年、1968年、1969年、1971年の4度選出されている。

 毎日、大毎、東京、ロッテとチーム名は変わったがオリオンズ一筋。通算1775試合出場は、福浦和也(2235試合)榎本喜八(2161試合)、堀幸一(2064試合)、有藤通世(2063試合)に次いで球団5位になる。

NPB捕手出場試合数10傑

1 谷繁元信 2963試合
2 野村克也 2921試合
3 伊東勤 2327試合
4 木俣達彦 1998試合
5 古田敦也 1959試合
6 中村武志 1932試合
7 森昌彦 1833試合
8 醍醐猛夫 1698試合
9 阿部慎之助 1667試合
10 石原慶幸 1594試合

 醍醐は史上8位の1698試合でマスクを被っている。醍醐がプレーした頃のオリオンズは観客動員数が100万人に達することはなく人気球団とは言えなかったが、ロッテの球史に残る名選手だった。(広尾晃 / Koh Hiroo)

© 株式会社Creative2