石木ダム「強制測量」<上> 対立と混迷の「原点」に迫る

1982年4月9日、石木ダムの立ち入り調査(強制測量)に向かう県職員と反対住民が対峙(たいじ)した=川棚町石木郷

 長崎県と佐世保市が東彼川棚町に計画する石木ダム建設事業は、県側が土地収用法に基づき所有権を取得した後も、反対住民13世帯が暮らし、対立が続き混迷している。両者の間に決定的な亀裂を生んだとされるのが、県が1982(昭和57)年に同法に基づき実施した立ち入り調査(強制測量)だ。事業に反対する住民らを県警機動隊が排除しながら強行し、深刻な禍根を残した。公と私の緊張感が再び高まる今、38年前に起きた対立の「原点」をあらためて取材した。
 粉雪交じりの風が吹きすさぶ。春なのに底冷えする朝だった。川棚町小串郷の国民宿舎くじゃく荘から、作業服姿の県職員が眠い目をこすり出てくる。
 県県北振興局の湯浅昭局長は思わず身震いした。寒さのせいか。緊張のせいか。昨晩は午後10時までの念入りな打ち合わせの後、床に入ったが、頭がさえて寝付けなかった。
 82年4月9日、石木ダム建設事業で、県は土地収用法に基づく立ち入り調査の初日を迎えた。3日前、事業に反対する住民と初めて接触したが、測量の同意は得られず、現地では激しい抵抗が予想された。緊張した面持ちの県職員や調査会社のスタッフを乗せ、古びた大型バスが出発した。
 同じころ、ダムに水没する同町川原(こうばる)地区の広場では「絶対反対」の鉢巻きを締めた住民たちが集まっていた。リヤカーに乗った高齢者や数珠を手にした主婦の姿もある。
 「きょうは決戦日です」。応援に駆けつけた県労評の街宣車が、拡声器で住民を鼓舞した。県内各地から労働組合員が動員され、普段静かな集落は物々しい雰囲気に包まれていた。
 街宣車を先頭に行進を始める。「ダム反対! 測量阻止!」。住民の多くは、それまでデモなど経験したこともなかったが、見よう見まねのシュプレヒコールは次第に大きくなっていった。ダムサイトを600メートルほど過ぎた阻止線に着くころ、群集は300人以上に膨れ上がっていた。=文中肩書は当時=


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