摩擦がなかったら

 おおらかな性格をよく示す逸話が知られている。大学院生の頃、物理の臨時講師を務めていた高校で出題したのは、答案に何を書いても不正解-の“超難問”。問題は〈もしも、この世に摩擦がなかったらどうなるか〉▲摩擦がなければ、鉛筆の先は紙の上をするすると滑るばかりで、文字は書けない。したがって、この問いに対する模範解答は「白紙答案」-こう教わったら二度と忘れることはあるまい。教室の生徒たちがうらやましい▲おおらかさはこんな発言にも。「メモなんかしない。忘れたら忘れたで、それだけのこと。必要なことなら、また後で思いつく」。2002年にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊氏が亡くなった▲ニュートリノの観測に成功したのは、一時期休止していた観測装置「カミオカンデ」の運転を再開した直後だった。「コシバは幸運だった」の声にこう反論した。「ニュートリノは世界の60億人に同じように降り注いだ」。チャンスは周到な準備をした者だけに訪れる、と▲日本学術会議の新会員任命拒否問題が長く尾を引いている。梶田隆章会長は小柴氏の愛弟子の一人▲周到な準備とはまるで対極にある説明の迷走を苦々しく感じていなかったか、学問と政治の摩擦に心を痛めながらの旅立ちではなかったか。気に掛かる。(智)

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