<南風>春よ、来い

 音楽は時に強烈に記憶を呼び覚ます。

 2011年、東日本大震災の起きた3週間後、僕は岩手県大槌町に入り、沖縄県医師会の運営する仮診療所で働いた。

 深い湾の奥に位置するその町は、地震と津波と、それに続く火災で数時間のうちに壊滅した。多くの方が亡くなり、生き残った人々は文字通り着の身着のまま寒天の下に放り出された。

 避難所では、200人を超える人々が冷たい床の上で生活していた。外は寒風と埃(ほこり)が舞い、4月になるというのに雪も降る。水も電気も不十分で、食も冷たいおにぎりがメイン。

 その時日本でもっとも安心と安全と安寧(あんねい)を必要としていた人たちが、そんな環境に置かれ続けていた。

 沖縄からやってきた多くの医療スタッフと泊まり込みで連日働く。急性期医療の時期が過ぎ、この劣悪な環境からいかに人々の健康を保つかということに重点が移っていった。

 日々が過ぎる。桜が咲き、そして散る。5週間が過ぎて避難所を去る日が来た。見送りに出てきた避難所の人たちに大きく手を振り、泥と埃にまみれた車をひとり走らせた。

 山々を越え遠野に向かう道すがらいくつもの鯉(こい)のぼりが川岸に吹かれていた。美しい青空だ。と、ラジオに松任谷由実の「春よ、来い」が流れた。愛する人への思いを、遠い春を待ちわびる気持ちに重ねた曲。

 透き通る青空に泳ぐ鯉の群れ。しかし震災に見舞われた彼の地の人たちに春はまだ遠い。曲は続く。

 「それは明日を超えて いつか きっと届く」

 突然感情があふれた。悲しさ、悔しさ、この世界の不公平さ、不条理さ、自分の力の小ささ、もどかしさ。避難所の人たちの顔が一人ひとり浮かぶ。声にならない感情は堰(せき)を越え、ボロボロと涙をこぼしながら僕はハンドルを握っていた。

(山内肇、オーストラリア在住家庭医)

© 株式会社琉球新報社